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知念冬馬氏トークショーin京都店
沖縄の歴史から紐とく琉球紅型について

京都きもの市場京都店で開催された、知念家10代目・知念冬馬氏のトークショー。満員御礼となった会の模様をお届けします。

京都きもの市場 京都店では、2020年3月半ばにお買い得市を開催。
特別イベントとして、琉球びんがた工房「知念紅型研究所」にて作品制作を手がける、下儀保知念家10代目・知念冬馬氏をお招きし、トークショーを行いました。

琉球紅型の三宗家の一つ、「知念家」。
伝統ある知念家の10代目として、日々物づくりに励む知念冬馬氏が沖縄からお越しくださるとのことで、会場は満員!

知念びんがた工房の作品はじめ、琉球紅型の帯やお着物をお召しになっているお客様もちらほら。皆様の関心の高さが伺えます。

3月とは名ばかりの寒さがつのる京都で、ここ京都きもの市場 京都店がひときわ熱気に包まれておりました。

「まずみなさん、『紅型』の名前の由来をご存じですか?」
という問いかけから始まったトークショー。

今でこそ「紅」の色の漢字が当て嵌めてありますが、もともとはひらがな表記。
琉球紅型に欠かせない、型紙の技術を学んだ場所が、中国・福建省「閩(びん)」という国からだったという説。
また東南アジアの「ベンガラ」という紅型の染料からとったという説…など、その由来には諸説あるようです。

16世紀の沖縄――琉球国は様々な国の文化が混在する場所。
中国、ポルトガル、朝鮮、東南アジアの国々、日本…
様々な国の文化が混在する中で、琉球国の国力、技術力を示す代表となったのが、「琉球紅型」でした。

琉球国の王家の力の強さを表すために、もっと色鮮やかに、派手に…と試行錯誤を重ねた結果、現在の琉球紅型にも通じる、色柄の発色の良さが一つの特徴になったそうです。

色柄の鮮やかさ

琉球紅型の色鮮やかさの源は、ずばり「顔料」。

着物では一般的に「染料」が使われていますが、染料は光を吸収してしまうため、発色が鈍く、沖縄の強い紫外線の中では色褪せてしまう欠点があります。
顔料は光を跳ね返し、色鮮やかに発色し続けるため、こと琉球紅型においては多用されるようになりました。

現代においては、地の色は色の飛びにくい染料を、柄は顔料を用いることが多いようです。

顔料は退色しにくいため、三代続けて着ても変わらず色鮮やかなまま着られる、一生ものとのこと。
こちらの作品、なんと知念冬馬さんのお祖父様・知念貞男氏の作品で30年前に作られたものとのこと。全く色褪せておりません。

「さすがに少しは色は落ちついてきますが、地の色に馴染んでこっくりとマットな感じになった、というくらい。この色の強さが琉球紅型の魅力でもありますね。」とのこと。

  • 約30年前の知念貞男氏の作品。沖縄の民芸品を柄にしたもの。糸巻や杼などが見える。

琉球紅型の柄には、昔の琉球王朝時代に王族が希望して染め付けた柄や、古くから沖縄の庶民の生活に根付いた器物や自然を模した柄が見られます。

一方、現在の沖縄には見られないものも多数見受けられます。
たとえばこの反物の雪輪や桜、紅葉。
ほとんど目にすることのないこれらの柄を描くことで、琉球紅型は、まだ見ぬものへの「あこがれ」を形にしてきました。

同時に「こうなって欲しい」という願掛けや寿ぎから、柄を選び、染めつけることもあります。
これは「うちくい型」と呼ばれる柄。
従来はお祝い事の時にプレゼントする風呂敷に染めつける柄で、もともとは手描きで書かれる文様ですが、このようにアレンジして型紙を作り、帯にも染めつけているとのことです。

色鮮やかな顔料を用いて、琉球王朝時代、戦前、戦後それぞれの時代を映し出す柄を染める…「琉球紅型は、まさに沖縄の歴史が詰まった伝統工芸なんです」と冬馬氏は語ります。
琉球紅型の制作工程
また、トークショー内で紅型の作業工程をipadで見せていただきました。

制作は大まかに、
①型紙を彫る
②生地に型紙を置き、上から糊を置き、呉引き(滲み止め)をする
③柄の色を染める
④柄の色に陰影をつける
⑤蒸して色を定着させ、糊を落とす
⑥地以外の柄部分に糊伏せをする
⑦地を染め、再び蒸して色を定着させ、糊を落とし乾燥させる
の流れで行われます。

これらの工程を分業制ではなく、基本的にひとつの工房内、あるいは1人の職人がすべてを行うのが琉球紅型の作り方です。

型紙は2種類あり、1つは柿渋を重ねて作る伊勢型紙、もう1つは柿渋に似せて作った合成紙。
伊勢型紙は彫りやすく、手で彫ったときの温かみが出やすい点が良いところ。
一方合成紙は、水や乾燥にも強く、長持ちするという利点があります。
現在は柄によって使い分けをされているのだそう。
ただ伊勢型紙は彫った部分に張る絹紗と呼ばれる細かい網を作ることのできる職人が激減しており、手に入りにくくなっているようです。

これは生地の上に型紙を置き、糊を上からのばしている工程。
青く見えるものは染料や顔料ではなく、あくまで防染糊なので、生地には全くつかないとのこと。
そのまま染物になってしまいそうなほど、綺麗な青色です。

こちらは糊置きが終わり、柄に色の染付を行っているところ。
顔料は生地の中まで浸透しにくいため、染めつける際、色をのせる筆・色を刷り込む筆の2本を使い分けて染めます。
また一度すべての柄を染めつけた後にもう一度、発色を良くする為に塗り重ねて行くのだそうです。

そして更に「隈取り」と呼ばれる工程へ。
先に染めた柄に更に濃い色を重ね、ぼかしをかけていきます。柄の輪郭や立体感、柔らかさを表現するのに欠かせない工程です。
「紅型の深みを表現するにあたって、隈取りは非常に重要です。職人の技術力が問われ、ぼかし方で柄が生きるか死ぬかが変わってきます。」と冬馬氏。

柄部分の染め付けが終わると、今度は地の色を染めていきます。
地の色には顔料ではなく染料を用いますが、このまま上から色をかけてしまうと、折角色鮮やかに染まった柄がくすんでしまうため、なんともう一度、すべての柄に糊をかぶせ、防染していくとのこと。

図で見せていただいた生地は着物用の生地のため、長さにして13m。

「柄からはみ出たり、間違えて糊を垂らしてしまうと、そこは地の色に染まらなくなってしまう。1回ミスしたら洗い直しです。しかも糊は一度置いてしまうと、洗い流しても染まり方が違ってしまうので、生地全体、13m全部に糊を塗ってから洗い流し、もう一度最初から糊伏せを始めます。」

13mもの生地に柄を染めて、もう一度染めて、更に糊をおいて、失敗してしまったら一からやり直し…本当に気の遠くなるような工程をへて、今目の前の作品たちができているのだとお話から分かり、会場全体から溜息がもれました。

因みに琉球時代は、色を定着させるための「蒸す」という工程は存在しませんでした。
というのも琉球時代は帯ではなく、室町時代の着物のように紐でゆるく締められており、摩擦での色落ちを心配する必要がなかったようです。
戦後、紅型を本土の着物に染めるようになってから、帯を締めるにあたり追加された工程なのだそうです。

時代や用途に応じて技法も変わりゆくのだと実感させられました。
琉球紅型の道具
また今回、実際に工房で使用されている道具をお持ちいただきました。
琉球紅型の道具は、なんと自給自足で作られることが多いそうです。

型紙を掘るための下敷きとなる「るくじゅう」は沖縄の食卓にものぼる島豆腐を乾燥させたものですし、型紙を掘る小刀の鉄板も職人自らが折って作成します。
  • るくじゅう。島豆腐を2~3か月乾燥させて作る。ちょうど3月は島豆腐を乾燥させて、このるくじゅうを工房でも作っている時期だった。
  • シーグ(小刀)。紅型の型紙を彫るための道具。長さも自分たちに合わせて調節する。
できる限り外からの力を入れず、すべて工房や職人が一人でも用意できる物で作っているとのこと。
「まさに沖縄のための工芸です。」と冬馬氏はおっしゃいました。
琉球紅型の歴史と、これから
最初に紅型の基礎を作ったのは「沢岻(たくし)家」と呼ばれる家系。
現在の沖縄県浦添市のあたりに居を構え、その地域独特の型紙「浦添(うらしい)型」を用いて、庶民や神事用の衣装の染色を行っていました。

浦添型をさらに華やかに、緻密に発展させたのが「首里(しゅり)型」と呼ばれる、王族の衣服にのみ使用される型紙です。
こちらの首里型を用い、琉球王朝に衣服を納めていたのが、「沢岻家」「城間家」そして知念冬馬さんの「知念家」。これらを「三宗家」と呼びます。
琉球王朝とともに栄え、発展してきた琉球紅型ですが、これまでに2度、消滅の危機に晒されました。

1度目は琉球王家の消滅。
明治維新の流れで廃藩置県が起こり、琉球国が廃止され、沖縄県に変名。
合わせて王家は解体となり、衣装を納めていた三宗家は危機に立たされます。
琉球紅型の祖であった「沢岻家」は解体。
「知念家」「城間家」はともに技術を発展させるところから、技術を守るための方向転換を余儀なくされます。

そして2度目は第二次世界大戦。
大戦の中で沖縄は焦土と化し、人も物も失った中で、琉球紅型の技術を何とか継承させようと動いたのが、上儀保知念家5代目・知念績弘(せきこう)氏と、城間家14代目・城間栄喜(しろま・えいき)氏でした。

着るものなど無い。代わりに米軍の残したシーツを染める。
型紙は海図を切り抜き、糊を塗るヘラはレコード盤から切り出す。
染料は口紅や砕いたレンガ、ペンキで色を塗る。
糊を置く筆の先につける竹は燃えてしまったから、薬莢をを代わりに差し込む…

戦争のあとに残されたものだけをたよりに、ゼロから紅型を復興させました。

また、沖縄の文化研究家でもあり、自ら人間国宝の染色家でもある鎌倉芳太郎(かまくら・よしたろう)氏に、戦前、大量の型紙を譲っていたため、数多くの型紙が戦火を免れ本土に残されており、琉球紅型の古典柄は幸運にも失われずに済みました。

そして技術と歴史を残し、生かす場として、今まで沖縄にはなかった本土の「着物」が選ばれたのです。
知念績弘氏・城間栄喜氏はじめ、職人達の執念とわずかな幸運によって、琉球紅型は今も継承されています。

そして琉球紅型を今後も残して行くため、知念冬馬氏も自ら後進の育成に携わっています。
2年に1度は20代や30代の若手を雇用し、技術力を高めて行ってもらうと同時に、「琉球紅型を後世に伝えたい」と思ってくれる人が働きやすい環境づくりをされています。

「僕自身は図案おこしから型彫り、色染めまで全行程一人でできるけれど、そのままではいけない。若い方にも育ってもらわないといけない。」と語っておられる姿が印象的でした。

普段は工房にこもって黙々と作業しているから、上手く喋れるか心配で…とはにかみながら仰っていた冬馬氏ですが、蓋を開けてみればあっという間の1時間。
質疑応答も飛び交い、琉球紅型の魅力を余すところなく知ることができたひと時でした。

「紅型の色柄って派手で、怖がっている方もいると思うんです。ただ帯だと表に見えるのはお腹とお太鼓のあたり。着ていただくと思っているより落ち着いて見えます。「少し派手かな?」と思うくらいの帯からトライしていただくと、紅型ならではの発色の良さを楽しんでいただけるのかなと思います。」
と紅型初心者の方向けに、アドバイスも。

時間と手間をかけ、ひとつひとつ作られる琉球紅型の作品。
もしお目に留まる機会がありましたら、是非ともお手に取って、沖縄の歴史に思いを馳せてみてください。