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滅びの夢の、その先の 〜小説の中の着物〜 久世光彦『雛の家』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第二十二夜

滅びの夢の、その先の 〜小説の中の着物〜 久世光彦『雛の家』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第二十二夜

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小説を読んでいて、自然と脳裏にその映像が浮かぶような描写に触れると、登場人物がよりリアルな肉付きを持って存在し、生き生きと動き出す。今宵の一冊は、久世光彦著『雛の家』。昭和初期、凪いだ時代の終わり。ひたひたと忍び寄る戦争の足音を聞きながら、日本橋の老舗人形屋《津の国屋》の三姉妹が織りなす、それぞれの恋愛模様。散りゆく桜もまた然り、人は何故、滅びゆくものや破滅へ向かうもの、罪の匂いに惹かれてしまうのでしょうか。

2022.02.26

まなぶ

そろそろ桜も 〜現代フォーマル着物考その2〜「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第十夜

今宵の一冊
『雛の家』

久世光彦『雛の家』中公文庫

久世光彦『雛の家』中公文庫

 歌っていて涙が零れた。《津の国屋》の店の正面にきらびやかに並んだ、七段飾りの雛人形たちが、半月を浮かべた掛川の夜空に現れたようだった。あの日は、もう帰ってこないのだろうか。もう二年半も前になるが、昭和十四年の桃の節句は賑やかだった。そしてあの年が《津の国屋》の最後の華やぎだった。父の英斎も家業に身を入れていたし、母の久乃もまだ四十半ば前で、若々しくて綺麗だった。誰よりも吟が元気で、みんなを仕切る声が凛々しく冴え渡っていた。あの日の自分たちの衣裳を、菊乃ははっきり憶えている。控えてこそ華と吟に言われていたので、三人とも地味造りではあったが、ゆり子が薄紫の紫苑、真琴は桃の散りぎわを染め抜いた品のいい訪問着、いちばん下の菊乃は、東雲色に臙脂の蝶が羽を広げている柄だった。写真を撮っておけばよかった。日本橋から銀座まで評判の《津の国屋》の三姉妹は、菊乃が十五、真琴は間もなく十八でゆり子が二十一、それぞれ三つ違いで、絵に描いたように綺麗だと言われていた。―――みんな笑っていた。声まで笑っていた。

久世光彦『雛の家』中公文庫

今宵の一冊は、久世光彦著『雛の家』。

昭和14年。ひたひたと確実に忍び寄る戦争の足音を聞きながら、それでもまだ、わずかに凪いでいた時代。昭和初期の終わり、第二次世界大戦直前の日本橋の老舗人形屋《津の国屋》の、美しい三姉妹をめぐる物語です。

明治維新によって、それまで営々と築き上げてきた生活や文化を含む社会規範のすべてが瓦解。ほぼすべての立場の人がその後の暗中模索を余儀なくされ、動乱の中で失われたものと残ったもの。

信じてきた価値観のすべてを覆され、手探り状態の中でも残り続けたものと、その後に続く大正期における新たな西洋文化や価値観の流入、技術の革新を経て、渾然一体となったそれらが質の高い融合を果たし、文化芸術分野においても、衣食住といった生活に根ざしたものでありながら芸術的要素を持つ産業においても、最も高い技術とクオリティを確立したのが昭和初期であったと言われます。

着物関係で現代においてアンティークと呼ばれているものは、だいたいこの時代に作られたものを指すことが多く(厳密に言うと100年は経っていないにしても)、職人の高い技術と、財閥などの富裕層により金にも時間にも糸目を付けず職人に好きなだけこだわって作らせたりするなどにより、後世においても価値のある品々が生み出されていた時代(本作中にも、三姉妹の祖母である〈お吟さま〉が、栄華を誇った日々を再現し完結させるために、三姉妹に着せる豪華絢爛な衣裳を前もって作らせておいた…という描写が)。

しかしそれは、制作する側にとっても依頼する側にとっても、幸せな時代であったと言えるでしょう。

着物や帯、帯留や簪などの宝飾品といったものはもちろん、人形屋である《津の国屋》が扱う品ー雛人形や武者人形などーも同じく。

ちなみに、この画像の扇子に描かれた立ち雛は関東雛(現代雛とも)と呼ばれます。関西雛(古代雛)はこの逆。向かって右に男雛、左に女雛が配されます。

これは、日本古来のしきたりでは左上位の思想が基本にあり、左側に上位者(位や年齢が上、男女であれば男性)とされていたものが、大正天皇以降、公式な場での立ち位置が西洋文化に合わせて逆になったことから、雛人形の配置も逆になったと言われています。

しかしながら、皇室のしきたりに合わせて逆になったのは男雛女雛だけで、下段の随身たちは古来の飾り方で左上位のままなのだとか。

なんだかちぐはぐで、ちょっとおもしろいですね。
がちがちの伝統やしきたりと思っているものも、実は意外とちょっと適当だったりする…その背景が垣間見えるようで。

老舗の暖簾にあぐらをかかず現状を見極め、その看板や名をうまく利用もしながら時代に合う商売に舵を切り《津の国屋》を盛り立てていたのは、三姉妹の祖母である〈お吟さま〉。

才覚とカリスマ性を備え、しっかりと屋台骨を支えていたその大黒柱が揺らいだとき、世の中には、明らかに不穏な気配が漂ってきていました。

それは果たして、折悪しくだったのか、必然だったのか…。

今宵の一冊より
〜三姉妹〜

嬉しいのは、このごろ三人とも急に綺麗になった、と噂されるときだ。四年前の《津の国屋》の雛祭り、あのころがそうだった。人形界は盛りの春だったし、お店に一歩入ると、浮き立つような花の香りが溢れていた。いちばん上のゆり子が二十一、真琴が十七歳で、末っ子の菊乃はまだ十五歳だった。その日の着物を菊乃は憶えている。ゆり子の薄紫の紫苑は、きらびやかな色彩が渦巻く店内の客たちの中で、慎ましく色っぽいだけに一際目立った。桃の散りぎわを染め抜いた真琴の訪問着も評判だった。ゆり子も真琴も、〈お吟さま〉の言う〈控えてこそ花〉だった。菊乃の着物の腰の辺りには、臙脂の揚羽蝶が羽を広げていた。

久世光彦『雛の家』中公文庫

物語の中で、何度も繰り返し語られる、幸せの絶頂だったあの日の記憶。

しかし…《控えてこそ花》という、お吟さまのお言葉には力いっぱい同意しますが、描写されたこれらの装いが“控えた”ものだと言うならば、周囲の人々はどれだけ煌びやかだったのかと(現代の感覚では、確実に主役級…笑)。

もちろん、その日暮らしの庶民と、上流階級と言われるような人々の生活には大きな隔たりがあるでしょうが、日本橋を代表する老舗の人形屋である《津の国屋》に着飾って雛人形を買いに来る層であれば、実際に勢を凝らした装いをしていたのでしょう。

ゆり子の紫、真琴の散り際の花の風情(作中では桃ですが)、菊乃の蝶。

それぞれを象徴するような色やモチーフを集めて、ひと揃いに。

藤紫の地に、艶やかに咲き誇り舞い散る紅白の桜が描かれた訪問着に、たおやかな蝶が織り出された綴れの帯を合わせて。

白との対比で、透明感のある紫が際立つワントーンコーディネートです。

可愛らしくなりがちな蝶モチーフも、モダンなシルエットと抑えた色遣いのこんな雰囲気なら、大人の女性にも似合いそう。

強い色を小さく使うと効果的。

唇にひと刷毛の紅を挿すように、帯揚げにぽつりと紅を。

他の小物をワントーンでまとめている分、こんな風に強い色を小さく使うと効果的。

実際に身につける際には、ぐっと押し込むようにして、上から見た時にちらりと覗くくらいが素敵ではないかと思います。

“蝶”というモチーフには、羽ばたく、あるいは蛹(サナギ)から美しく変化することから、“飛躍”や“成長”という意味で縁起の良い柄という説もあれば、花から花へと飛び移ることから“移り気”を意味し、若い女性、特に婚礼衣裳にはNGという説も。

また、“夜の蝶”などと言われるように、玄人の女性向きの柄であって素人の女性が着るものではないと言う方もいらっしゃいますね(蝶は家紋にもあるくらいですから、その説はどうかと思いますが…)。

しかし…毀誉褒貶(きよほうへん)と言いますか、ここまで真逆の説があるのもこのモチーフのおもしろいところかもしれません。

それもこれも、この“蝶”という自然界が生み出した美しい造形に、人々が何としても身につけたいと願うくらい惹きつけられる魅力があるからとも言えるでしょう。

柄の意味というものは、もともと言葉遊びのようなもの。

現代よりはるかに失われやすかった“生命”に対する祈りや願いを、言霊として込めたところから始まっていますから、その時代によっても違いますし、見る人がどういう立場かによっても変わる。

地域によって違う場合もありますし、柄の意味というものが一律に言えない場合もある、という好例かもしれません(松竹梅など、誰もが知っている代表的なものはともかくとして)。

 その色が好きで、長いこと慣れ親しんでいると、その色は女の肌と馴染み合って、まるで小さな約束のように結び合うものだ。ゆり子の紫がそうだった。だから菊乃は、いまに大きくなっても、着物に紫だけは避けようと思っている。菊乃には危険過ぎた。二藍であれ葡萄(えび)であれ、紫には〈罪〉の匂いがする。

久世光彦『雛の家』中公文庫

作中で菊乃は、ゆり子の肌と一体化したような色だから避けようと心に決めているようですが、そうでなくても、確かに“紫”はなかなか難しい色。

高貴さ、凛とした気高さ、艶(あで)やかさ、色っぽさ、艶(つや)やかさ、粋…と、さまざまな替え難い魅力を内包する色でありながら、ほんのわずかの明度や彩度、光沢、素材の質などの要素により、一歩間違うと、品のない印象になったり、やたら老け込んだ印象になったりしてしまう危険性が高い色と言えます。

これもまた“蝶”と同じで、真逆の評価になりやすい色の代表と言えるかもしれませんね。

下品にならないために気をつける点としては、顔映りが良く、平坦ではなく深み(ニュアンス)のある色を選ぶこと、そして上質な素材を意識すること。その2点を抑えておけば、大きな失敗は避けられると思います。

本作中で、ゆり子がまとう紫は“紫苑ー菊科の植物である紫苑の花のような、くすんだ淡い青紫ー”ですが、こちらは、どちらかというともう少し明度の高い“藤紫”でしょうか。

ひと口に“紫”と言っても、京紫や葡萄(えび)色に代表される赤みの強いものから、紫苑や藤系、江戸紫など青系のものまで多岐にわたります。鳩羽鼠や藤鼠など、江戸っ子の大好きな鼠系も多く、やはり魅力のある、愛された色ということなのでしょう(特に濃紫は、禁色として高貴な身分の方にしか着用が許されない時代もありましたから、憧れの部分も強いのでしょうね)。

私自身も、紫は差し色としてわりとよく使う色でもあります。自分の好みとして、渋めの鼠系の色味が多いですが、合わせる着物や帯がとにかく地味なので、ほんのわずか紫がかっただけでも充分華やかな差し色になってくれるという…いわゆる比較対象のマジック(笑)。

そういうわずかな差し色においても、自分らしい色というのは誰しもが持っているのではないでしょうか。ゆり子のように、肌と結び合う、とまではいかないまでも。

季節のコーディネート
〜春の夕暮れ〜

菜の花や 月は東に 日は西に

与謝蕪村の有名な句が描き出す風景をイメージして、鮮やかな黄色の染め紬を一面の菜の花畑に見立てたコーディネートです。

紬の持つ、ざっくりとした素材感は、素朴な印象の“菜の花”というモチーフに似つかわしい気がします。

帯の円相は、東に浮かぶ満月でもあり、西に落ちようとする太陽でもあり。

葉の花も月も、どちらもそのものずばりではなく、いわゆる“見立て”。

誰かが気付いてくれても良し、自分だけの密かな楽しみでも良し(つい我慢できず自分からネタばらししちゃうのも、それはそれでまた良し、です)。

こっくりと深いグリーンの小物を添えて。

※小物はスタイリスト私物

敬愛する芭蕉の足跡を辿り、僧の姿で諸国を行脚したと言われる与謝蕪村にちなんで、編笠と短冊を象った木彫の帯留を。

これはアンティークのため、良い感じの艶が出て木の色が深みを増しています。

菜の花の茎のような、こっくりと深いグリーンの小物を添えて。

絞りで円相文を拝した袋帯。

しなやかな生紬地を深い黒鳶色に染め、霞のような横段に染めた小紋柄に重ねて、絞りで円相文を配した袋帯。

柿渋ならではのニュアンスのある色が味わい深く、シンプルながら印象的な後ろ姿に。

ここではこの鮮やかな黄色を菜の花に見立てましたが、春の黄色といえばミモザやレンギョウ(本作中でも、ゆり子が締めていた帯に描かれています)、タンポポにチューリップ。

少し季節を遡り、1〜2月なら福寿草に黄水仙。

4月以降も、山吹に黄菖蒲、秋ならば菊や銀杏の葉はもちろん、稲穂や金柑など“実り”の色としても良いかもしれません。

意外と自然界には“黄色”が豊富。さまざまな見立てが楽しめそうです。

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季節のコーディネート
〜夕暮れの桜〜

花霞に煙る春の空気のような、桜鼠の地色に染疋田の雲が配された訪問着。銀駒であしらわれた霞の刺繍が、すっと際立って奥行きを感じさせます。

昼間の満開の桜でも、夜桜でもなく。

日が暮れる前、夕闇に溶けようとする桜…そんなイメージでしょうか。

風に揺れる柳の帯に観世水の帯留を添え、桜の花びらが舞い散る水辺の景色。少しアンティークなニュアンスも感じさせるコーディネートになりました。

胸元には黒地に繊細な霞が描かれた扇子を添えて。

黒地に繊細な霞が描かれた扇子を添えて ※小物はスタイリスト私物

半衿には舞い散る桜、胸元には黒地に繊細な霞が描かれた扇子を添えて。

お花見の席ならば、このくらい控えめな桜のコーディネートで密やかな競演といきたいもの。

枝垂れ柳が染められた帯。

枝垂れ柳が染められた帯の地色は、和名で言うなら、檳榔字(びんろうじ)染か紅消鼠(べにけしねずみ)といったところでしょうか。

動きに応じて控えめに煌めく銀通しの地が、シックな地色と相まって大人っぽい華やかさです。

季節限定のお楽しみ
〜春の花々〜

季節限定だからこそ、その喜びを堪能したい。

毎年、花が咲くのを待って訪れる場所があるように、必ずその時期に登場させたい帯や着物がある。

それもまた、着物ならではの楽しみ方のひとつかと思います。

木蓮の染め帯は、白を主体としたその染めの印象通り“白木蓮”として楽しむなら、3月〜4月上旬がぴったり。

白木蓮の時期は終わってしまったけれど、あともうちょっと締めたいな…そんなときには、紫系の着物に合わせたり、紫の小物を添えて“紫木蓮”として。紫木蓮は白木蓮の後、3月後半〜4月いっぱいくらい咲いているので少し寿命が延びますね(笑)。

菜の花は、実は意外と長く咲いてはいるのですが、やはり気分としては3月いっぱいというところでしょうか。3月の季語でもあることですし。

菫は3〜5月はじめくらいまでわりと長く咲いていますから、あまり気にせず、春の間しっかり楽しめそうです。

それらを合わせたのは、紅花染めの紬の着尺。爽やかな白緑を主体に、薄青や黄色など、さまざまな色が織り込まれています。

こういった織の着物は、織り込まれたどの色かに帯の地色や柄の色が引っかかればまず違和感なく合いますから、コーディネートの幅が自然と広がってとても便利。

帯や小物合わせに悩むことなく、登場機会が多くなりそうな一枚です。

素朴なタッチで描かれた紬地の染め帯です。

※帯・小物はスタイリスト私物

土筆(つくし)、蕨(わらび)、蒲公英(たんぽぽ)に菫(すみれ)。

まさに、今。

早春の野辺の景色が、素朴なタッチで描かれた紬地の染め帯です。

ちょっと可愛らしい印象があることもあって、どうにも渋い方が落ち着く因果な身の私としては毎年出番を逃し続けているのですが(でも気に入ってるのですけどね)。

さて、今年は出番を作ってあげられるでしょうか…

アンティークの、彫金の土筆の帯留を添えて。

最初にこの小説を手に取ったとき、自分自身が三姉妹の長女ということもあり(美しき…の部分は置いておいて、笑)、微妙に共感できる部分が多いことに苦笑いしながら読んだ記憶があります。

滅びゆくものや、どこか破滅の気配のするものに、よくないとわかっていながら惹かれてしまう気持ちもわからないでもないんですよね…。まぁ、若さゆえ…という部分も多分にありますが。

ゆり子の行動を全面的に肯定はできないけれど、理解はできてしまう(私もやりそうだしなーと、ここでも苦笑い)。

しかし…こういった小説で、よくあるパターンなのがおばあさま(本作の場合は〈お吟さま〉)がいちばんかっこいい、ということ。

実際にそういう女性が多かったということなのかな、とも思うのですが、この時代の家(店)を背負うということは、現代の私たちが思い至れるようなそう簡単なことじゃない。抱える人数も少ないものではないし。

しかしながら、大抵の場合息子は甘ったれ、娘や孫娘たちはわがまま育ちで役に立たなかったり、おばあさま仕込みの意志の強さや行動力を期待とは違う方向に発揮してしまったり(そう育てたのは誰か、という話になってしまいますが(笑)できる女性なのに、子育てには…?というケースが多いのは何故なんでしょうね…?)

この作品も御多分に洩れず、です。

お吟さまは、とても魅力的な方なんですけどねぇ…(すべてがうまくいかないからこそ人間らしい、とも言えますが)。

危うさを含む紫と、散り際の花と、ふわふわと舞い飛ぶ蝶とが象徴する、三姉妹の生き方。

美しくもどこか残酷で痛々しく、読みながら何ともやるせない気持ちになりつつも、著者独特の世界観に不思議な中毒性を以って引き摺られるように読み進めてしまう…そんな物語です。

さて次回、第二十三夜は。

藤、牡丹、躑躅に菖蒲…春爛漫、花盛り。

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