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“流れる”ような身のこなし 〜小説の中の着物〜 幸田文『流れる』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第二十夜

“流れる”ような身のこなし 〜小説の中の着物〜 幸田文『流れる』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第二十夜

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小説を読んでいて、自然と脳裏にその映像が浮かぶような描写に触れると、登場人物がよりリアルな肉付きを持って存在し、生き生きと動き出す。今宵の一冊は、幸田文著『流れる』。まるでスローモーションを見ているかのような錯覚すら覚える、まさに“流れる”ような身ごなしが著者独特の文体で語られます。

今宵の一冊
『流れる』

幸田文『流れる』新潮文庫

幸田文『流れる』新潮文庫

 主人の衣裳はこれはまた、「戦前の古なのよ」と云うが、りっぱと云うべきものだった。染めと絞りと刺繍で紅白の梅をわんさと咲かせ、流れが配してある。帯はつづれ・・・、云うまでもなく図柄は鶯。着物にさしあわないようにの心遣いであろう、鶯は花のない蕾二ツ三ツの細枝にとまらせてある。前のほうは着物にあわせて流れになっている。梅園とか鴬宿梅とかいう名のついている衣裳なのかとおもう。下着だけを新調したのか羽二重が黒の下にまっ白くかさなって、ゆったりとうちあわせたこれも白羽二重の襦袢の襟に、うつむくと肌着の鴇色がちらりと見える。すっと立つと腰の太さが膝できゅっと締って、裾は紅梅のかげから細みの足袋がしなしなと歩く。え?とふりむくと、眼のしおが薄くあからんで唇のはしにたくまない情慾が出る。改まった黒い着物でも抑えかねる全身の上品な色気で、誰にもたちまさったあでやかさである。見ていると、衣裳は人を美しくするものではないが、人は衣裳を美しく見せるものだと思わせられる。妓とはこうしたものなのかと梨花はまじまじと見る。
「いやあね、どうしたのそんなに見て。そこの懐紙取って頂戴よ。」
「はい、おぐしが洋髪でつまらないと思って、……前髪と鬢があるとどんなかと。」
「そうなのよ、翳がつくと誰でも美人に見えるのよ。島田って髪は不思議な髪でね、鼻のいい人は鼻がひきたつ、眼のいいひとは眼がひきたつ、おでこの綺麗なのはおでこ、口のかわいいのは口っていうふうに、いいところばっかりせりだして見せる髪でね。そうだわね染香さん?」

幸田文『流れる』新潮文庫

同著者の作品に、着物好きのバイブルと言っても過言ではない『きもの』がありますが、今回取り上げる今宵の一冊は『流れる』。

戦後間もないある年の師走、かつては隆盛を誇ったものの、現在は落ちぶれ苦しい経営状態にある芸者置屋「蔦の家」に住み込みの女中として勤め始めた梨花(作中では呼びにくいからと春に変えられてしまいますが)の目を通して見た花柳界の人間模様が描かれた物語です。

これは成瀬巳喜男監督による映画もとても良いので(田中絹代さん、山田五十鈴さん、高峰秀子さん、杉村春子さんと豪華な女優陣、そして原作にかなり忠実)どちらもおすすめ。

主人公梨花の腹の据わり方は、すなわち著者自身が投影されたものかと思えるのですが(映画の田中絹代さんは、その辺りがかなりマイルドになっているかも)、そのどこか醒めた観察眼―その事象だけでなく、それに対する自分自身の感情の動き(マイナス面すら)も含めて見据え、ねじ伏せようとする―による目の付けどころが面白く、それが本作の特徴のひとつでもあります。

主人は子どもに纏られながら、膝を割って崩れた。子どものからだのどこにも女臭い色彩はなく、剥げちょろゆかただが、ばあば・・・と呼ばれる人の膝の崩れからはふんだんに鴇色がはみ出た。崩れの美しい型がさすがにきまっていた。子どもといっしょに倒れるのはなんでもない誰にでもあることだが、なんでもないそのなかに争えないそのひと・・が出ていた。梨花は目を奪われた。

〜中略〜

なんという誘われかたをするものだろう、徐々に倒れ、美しく崩れ、こころよく乱れていくことは。

幸田文『流れる』新潮文庫

ただ女児にしがみつかれ、その子を抱いて倒れていくだけなのに、梨花は目が離せない。
きまりの悪い思いを抱きながらも、目を伏せることもできず見つめます。

「たった一週間だけど、あんたまたすっかり様子つきが後戻りしたわね。胸のあわせかたなんかがすぐに堅く変わっちゃうからおかしなものだわ」

幸田文『流れる』新潮文庫

年末に風邪に倒れ、“しろとさん”である従姉の家で療養後、芸者屋に戻ってきた梨花を迎えた主人の言葉。“しろうと”と“くろうと”の違いは、それほど、はっきりとわかる目に明らかなものだったのでしょうね。まとう空気のようなものもあったかもしれません。

現代でも、そこまで顕著ではないかもしれませんが、衿の開け具合、衣紋の抜き具合で素人っぽさ、玄人っぽさは雰囲気としてあります。体型などにも寄るので一概には言えませんが、ドラマなどで、素人さんの設定であれば衣紋は抜きすぎず、衿も詰め気味に。あくまでも品良く。玄人さんであれば衿は詰めすぎず、衣紋はしっかり抜いて色っぽい雰囲気にした方が、わかりやすく“らしさ”が出ますよね(現実には、そう画一的でもないようですけど)。

文中にある、長襦袢の内側にちらりと見える肌着の色。

ここでは鴇色(鴇の風切羽のような、少し黄みがかった柔らかいピンク。鴇羽色とも)ですが、紅のラインがちらりと見えるのも美しく色っぽいものです。なので、玄人さん風の着こなしを作る際は衣紋の内側にほんの少し紅が見えるよう、紅の小衿や袖の付いた肌着にしたりすることも。芝居やカメラワークによっては最後まで見えないままだったりもするのですが、でもやはり心持ちが違うと思いますし、何かの拍子に見えた場合、その役柄に説得力が生まれると思いますので、こだわりたいところ。

また、現代ではとにかく顔(頭)が小さいということが良しとされますが、着物を、特に裾を引くような着方をする際には、やはり首から上にもある程度のボリュームは必要なんだなと思うことがあります。歌舞伎などの舞台衣裳では特にそれを感じますが、結局はバランスということなのですね。

文中にもある鬘(びん)による“翳(陰)”が生み出す美を愛でる感覚は、とても日本人らしい美意識。平面が形作る衣類である着物においては、やはり、その効果が発揮されることが多い気がします。

横になったまま細い手を出して紅い友禅の掛蒲団を一枚一枚はね・・ておいて、片手を力にすっと半身を起すと同時に膝が縮んできて、それなり横坐りに起きかえる。蒲団からからだを引き抜くように、あとの蒲団に寝皺も残らないしっとりとした起きあがりかたをする。藤紫に白くしだれ桜と青く柳とを置いた長襦袢に銀ねず・・の襟がかかって、ふところが少し崩れ、青竹に白の一本独鈷の伊達締めをゆるく巻いている。紅い色はどこにもないのに花やかである。

幸田文『流れる』新潮文庫

「蔦の家」の窮状に助力を仰ぐ、組合の役員でもある老女将(映画では粟島すみ子さん。これがまた粋で格好良いのです)の寝起きの姿に衝撃を受ける梨花。この人は、どんなときでも、たとえひとりでもこんな風情のある起きあがりかたをするのかと。まるで、誰か愛する人がすぐ隣で眠っているかのように。老女将の越し方をまざまざと思わせ、“しろうと”と“くろうと”の明らかな差を梨花(読者)に見せつけます。

こういった“抑えかねる”色気を意図せず振りこぼすようなシーンが何度か語られ(そこには美しさだけではなく、なんとなく見たくないような嫌なものも纏わってはいたけれど)そのたびに、読者もいちいち“しろうと”として“くろうと”を見、同じような衝撃を受け、「妓とはこうしたものなのか」と呆然としたり何かを飲み込んだり。

まるでスローモーションを見ているかのような錯覚すら覚える、この著者独特の文体で語られる、まさに“流れる”ような身ごなし。その美しい一連の動きは、慣れももちろんではあるけれど、芸者ならではの踊りで鍛えた筋力のなせる技でもあったはず。どの場面を切り取っても美しい型をキープするには、体幹と筋力が必須ですからね(崩れていく動きは特に)。

鍛えられた体で、無意識のうちにコントロールされた動きで崩れてゆく形は美しいけれど、どこにも芯のない崩れはただぐだぐだなだけになってしまう。

文中にある“人は衣裳を美しく見せるもの”ーこれは、その人自身の魅力という意味もさることながら、衣裳(着物)の本来の美しさは人の肉体が入ってこそ、そしてその動きの美しさあってこそ。そういう意味にも思えます。

とはいえ“しろうと”である私たち、さすがに踊りで鍛えた方と同じにはいかないけれど、立ち姿や歩く姿にも結局同じことが言えるわけだから、せめて着ている間の姿勢がキープできるように、腹筋背筋、できればインナーマッスルくらいはしっかり鍛えておくといたしましょう。

体幹をしっかりと保ち、丹田を据えて動くヨガやピラティスでの姿勢は、着物のときの綺麗な姿勢の保ち方と似ているのでおすすめ。無駄に力入れずとも体幹を保った姿勢でいられるようになると、胸元の自然でなだらかな張りや肩の落ち具合(撫で肩に近づく)もキープでき、衿周りの崩れを防ぐことにもつながります。

今宵の一冊より
〜梅に鶯〜

寒中に百花に先駆けて咲くことから、苦難を乗り越える強さや可憐でありながら凛とした美しさを愛でられる梅。闇の中でも漂う香気は邪を払うとも言われます。

そして、背には可愛らしい鶯。

まるで日本画を体現したような、あるいは日本画から抜け出てきたかのような着こなしで、どこからか初音が聴こえてきそうな錯覚を覚えます。

丸で表されることの多い雪輪模様はどこか可愛らしくなりがちですが、こんなふうに縦の流れのある柄付けだと、白大島のクールな素材感とも相まって、すっきりとした着こなしに。

お正月前ということで、“松竹梅”で。

※小物はスタイリスト私物

冒頭の文中にもあった「鶯宿梅」は、まさに読んで字の如く“梅に鶯”の組み合わせのこと。

紀貫之の娘・紀内侍の家の庭に植えられていた梅が天皇の命により抜いて移し変えられてしまいますが、「毎年宿りに訪れていた鶯に聞かれたらどう答えれば良いでしょう…?」という意味の歌が枝に結んであるのに気付いた天皇が、その歌に心を打たれて梅の木を返したという故事に由来します。

“梅”につきものの組み合わせと言えば、あとは文のモチーフを合わせて“好文木(晋の武帝が学問に勤しんでいると梅が花開き、怠けていると萎れていたという故事にちなむ)”とするか、あるいは王道の“松竹梅”か……

お正月前ということで、ここは帯留にアンティークの鼈甲(べっこう)の竹、散り松葉の扇子を添えて“松竹梅”で。二部紐よりもわずかに細い帯留は、現代ではまず作られていない繊細さ。

うっかりテーブルにぶつけたりしたらぽきりといきそうなので、これを付けている時は自然と良い姿勢が保てます。

”好文木”のコーディネートはこちら

2022.01.29

まなぶ

ちょっと、きちんと 〜現代フォーマル着物考その1〜「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第九夜

見るひとの目にも温かみを感じさせてくれる羽織もの。

本手引染めコート地「光琳波・深紫色」 ※小物はスタイリスト私物

雪解けの流れを思わせる大らかな流水文の着尺を羽織に。あるいは、足元までのコートにしてもきっと素敵。

深い黒紫は、何にでも合わせやすく重宝する万能色。こういった白地や薄い色には特に映えますが、濃色に重ねても、輪奈ビロードの立体感が奥行きを感じさせ、重くなりすぎることなくしっくりと合わせられます。

見るひとの目にも温かみを感じさせてくれる羽織ものに。

梅に鶯
〜まるで、絵本のような〜

しっとりとした和の雰囲気の専売特許かに思える“梅に鶯”ですが、意外とこんな組み合わせも楽しそう。

先にご紹介したコーディネートを“日本画風”とするなら、こちらはさしずめ“絵本バージョン”といったところでしょうか。

友禅経節紬「動物の森」 +西陣九寸名古屋帯「瑞鳥文」  ※小物はスタイリスト私物

クレヨンでいたずら描きしたみたいな樹木と、思わずふふっと笑ってしまう、そのへたうまなゆるさが何とも言えず魅力的な鹿(たぶん…笑)がぽつりぽつりと染められた、長閑な雰囲気漂う紬の着物。あまり見ない柄ですが、こういう珍しい作品との出会いもまた、リサイクルの楽しみでもあります。

ざっくりとしたニットのストールや手袋なんかを合わせたくなる雰囲気。帽子やブーツなどを合わせたミックススタイルも楽しそう。

ぐっと和モダンな雰囲気になりそう。

※小物はスタイリスト私物

北欧風とも雪佳風とも思える、ゆるキャラみたいな動物たち。

琳派の流れを汲む神坂雪佳に通じるものがあるからでしょうか、光琳梅のゆるさがまた、妙にしっくり馴染みます。

着物と帯は、どちらも鶯色。あえてのほぼ同色の組み合わせが、どこか鶯っぽいシルエットの色鮮やかな瑞鳥を際立たせます。まるで広大な森林にカラフルな鳥が羽ばたく、絵本の中の1ページを思わせるような着こなし。

また、この帯を大胆な縞や格子、あるいは銘仙のようなレトロな大柄の着物に合わせたりすると、ぐっと和モダンな雰囲気になりそう。

いろんなバージョンの“梅に鶯”が楽しめそうですね。

今宵のもう一冊
『きのね–柝の音–』

宮尾登美子『きのね–柝の音–』朝日文芸文庫

宮尾登美子『きのね–柝の音–』朝日文芸文庫

「お光、お前行くか」
といい、そのあと反物の包みをぶら下げて帰り、
「これ、着て行けよ」
と無造作に渡したのは、渋い色目の縞のお召しであった。
 これまでも雪雄はときどき、思い出したように光乃に着物を買ってくれていたが、入園式用、として改めて調達してくれたのは、この上なくうれしかった。
 縫いものの得意な光乃は、さっそく反物を裁ち、子供たちが寝静まったあと、その枕もとで夜毎針仕事にいそしんで縫い上げた。
 上等の品の、それも子供の入園式に着てゆく晴れ着を、一針一針縫うよろこびは女ならではのもの、その上、人には言えぬ事情を抱えている身なら、唯一許されたその日を、手繰り寄せたいほどに待ち兼ねる。
 当日はよく晴れ、花という花はらんまんと咲き誇り、どちら向いても目出たさいっぱいというおもむきのなかで、お召しに黒紋付きの羽織を着た光乃と、白いエプロンの勇雄は、並んで雪雄のカメラに納まり、そして歩いて十分ほどの幼稚園に向かう。

宮尾登美子『きのね–柝の音–』朝日文芸文庫

今宵のもう一冊は、宮尾登美子著『きのね–柝の音–』。

こちらもまた、王道中の王道ともいうべき作品です。

先に挙げた『流れる』の中で、訪れた男性を「六代目に似た男前」と騒ぐシーンがあります。歌舞伎において単に「六代目」と言うと、大正〜昭和初期に大人気を博した伝説的な名優「尾上菊五郎」を指しますが、こちらはその少し後の時代、ちょうど現代の今、十三代目の襲名公演が行われている大名跡十一代目市川団十郎とその妻の生涯をモデルに書かれたと言われる大作。この十一代目もまた、その類い稀なる美貌と品格ある芸風と力量、高低ともに響き渡る美声で絶大なる人気を博したとか。

その傍らでひたすら尽くし支え続け、今の世に照らし合わせて考えると想像を絶する…それはもう、ただ“壮絶”としか表現しようのない光乃の生涯。しかしながら、雪雄もなんだかんだ光乃でなくてはということばかりで、結局のところ、ここまで突き抜けるとただただ幸福であったとしか言いようがないのではないか…という気にさせられ、圧倒されて、どこか羨ましいような気にすらさせられてしまう。

そんな本作の中で、陰の身に長年甘んじてきた光乃が、母としてただ在ることを許された日の晴れの装いは御召。それも渋い縞で、現代的な感覚では少し不思議に思えるかもしれませんが、この時代においてはそう珍しいことでもなく、光乃自身の控えめさと鈍い艶があったであろう御召の密やかな晴れがましさの度合いがなんとも良い加減で、私はとても好きなシーンです。

さて上の抜粋部分にも登場しますが、『流れる』の中でも

(前略)それでもつぎつぎに歳暮の贈りものが来る。それが花柳界の義理だかみえ・・だか知らないが、ねえさんたちは小改まりに改まった黒の羽織かなにかで、「これほんの……」と云う。

幸田文『流れる』新潮文庫

という描写があります。

第九夜でも触れましたが、“小改まりに改まった”という表現がなんだかしっくりくる、「はい、きちんとしてきましたよ」というアイコン的な装い。それが、黒羽織。

男性で言うなら、「ちょっとちゃんとしなきゃいけないから、一応ジャケット着てきたよ」という感じでしょうか。

2022.01.29

まなぶ

ちょっと、きちんと 〜現代フォーマル着物考その1〜「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第九夜

独特の艶が華やかな、桐竹鳳凰が織り出された紋織御召。

カジュアルと思われがちな“織の着物”ですが、その中でもこういった御召なら、現代においても茶席や入卒式などのきちんとした席に十分通用します。無地感覚で控えめなので、洋服のお母さまたちに混じっても悪目立ちしませんし、適度な艶が地味になりすぎず、晴れの日にふさわしい華やぎもあります。

松竹梅が七宝風にアレンジされた文様が織り出された紹巴織の名古屋帯は、さりげなく格のある吉祥柄なので、きちんとした席にもふさわしく、また格式張りすぎない(松竹梅感?めでたさ度合い?がそこまでは強くない)ので、観劇や食事会などの普段使いにも気兼ねなく使えそう。

着物と同系色のゆるぎ組みの帯締めですっきりと。帯揚げには、少しだけ綺麗な色を指して。白とのぼかしで色の部分の分量が僅かなので、よりモダンな印象に。
白の部分がほどよい礼装感と、ハイライト的な効果も添えてくれます。

“小改まりに改まって”、といった感じでしょうか。

※羽織、小物はスタイリスト私物

黒羽織で、お正月のご挨拶や新春の観劇に。

“小改まりに改まって”、といった感じでしょうか。

光乃のように、入卒式にも。白半衿が凛とした雰囲気をより高めます。

動きにつれ、ちらりと見える鮮やかな裏。

落ち着いた印象の表との差が、いっそう鮮烈なインパクトで目を惹きます。

艶(つや)を纏う

着物は布の分量が多いので、艶や素材感といったものが全体の印象をかなり左右します。
仮に同じ色でも、まったく艶のない縮緬と、こういった御召を選ぶのではずいぶん印象が違ってきますね。

晴れの席で、派手や豪華という意味ではなく“周囲に華やいだ空気感をもたらす着こなし”というのはやはり大事な要素ではありますが、それを生むのは色や柄だけではありません。“艶”もやはり、その効果に大きく関係します。

例え無地であっても、華やかな席では全身に艶を纏うことでドレス感覚の着こなしができますし、薄暗い茶席でも顔映りが良くハイライト的な効果を発揮してくれたりも。

普段使いならば羽織を羽織って少し分量を抑えそのバランスを楽しむなど、さまざまな着こなしが楽しめる紋織御召。どーんと配された大きな色柄があまり好みではない方は、艶感を重視した選び方を意識してみてはいかがでしょうか。

平面で見るのとは違う魅力や美しさを生み出したりも。

平面で見るのとは違う魅力や美しさを生み出したりも

無地であるだけに、柄にごまかされることなく体の動きが顕著に反映されるのがこういった無地感覚の着物の難しいところでもあり、おもしろさでもあります。

動きに伴って生まれた皺や生地の流れが、自然光や照明の下で、その影響を受けてまた平面で見るのとは違う魅力や美しさを生み出したりも。

先述の通り、今宵ご紹介した『流れる』は映画もおすすめ。原作に忠実に作られているので、これぞ実写化、といった趣です。

最初に抜粋した部分にもある「改まった黒い着物でも抑えかねる全身の上品な色気」……これを、見事に体現していたのが山田五十鈴さん(置き屋の女主人つた奴)。

映画の中では、芸者の日常着である浴衣姿が多く見られますが、ほとんどが亀甲や木目といった、大胆で、ある意味男っぽい柄のものばかり。なのに、そのこぼれんばかりの色っぽさと言ったら……

文中にもある「妓とはこうしたものなのかと梨花はまじまじと見る」。

まさに、観ているこちらも同じ状況。ただただ見惚れてしまいます。

所作の美しさは、動きだけでなく着付けにおいても同じことが言えます。

羽織る。紐を取る。結ぶ。そういった一連の動きのひとつひとつに無駄なく流れるような綺麗な捌き(さばき)が身に付いている人は、着付けも上手。

映画での、つた奴が出かけるために着替えをするシーンは必見です。結び終わって背を向けたときの、右下がきゅっと上がったお太鼓の、流れの柄がぴしりと合ってる気持ち良さと言ったら。

原作も映画も、それぞれのキャラクターを体現する着物の柄や着方の違い、リアルに息づくような性格を表す細かな所作の描写。現代とそう変わらない、賑やかな買い物シーン。
映画では、振袖ゆかたを着てわちゃわちゃしている子どもたちや右下がきゅっと上がったお太鼓が並んで歩く後ろ姿などなど。

どちらも見どころ満載なので、この年末年始、お正月特番に飽きたらぜひ原作とセットでどうぞ。

さて次回、第二十一夜は…
粋で鯔背な、男のきもの。

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