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交錯する日々〜小説の中の着物〜嶋津輝『カフェーの帰り道』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第五十七夜

交錯する日々〜小説の中の着物〜嶋津輝『カフェーの帰り道』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第五十七夜

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小説を読んでいて、自然と脳裏にその映像が浮かぶような描写に触れると、登場人物がよりリアルな肉付きを持って存在し、生き生きと動き出す。今宵の一冊は、嶋津輝著『カフェーの帰り道』。ちょうど100年前、大正の終わりから昭和にかけて。上野のはずれ、繁華街とも言えぬ場末の、少し寂れた小体なカフェー。そこで穏やかな初老の店主に見守られながら、それぞれの事情や葛藤を抱えて働く女性たち。ひらひらと舞う白いエプロンに包まれた、ひたむきな日々がそこにある。

2026.04.08

コーディネート

鈴と源氏香〜小説の中の着物〜竹田真砂子『鏡花幻想』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第五十六夜

今宵の一冊
『カフェーの帰り道』

嶋津輝『カフェーの帰り道』/東京創元社

嶋津輝『カフェーの帰り道』/東京創元社

 稲子は筋交い脇の席から店内を見回す。
 客は稲子のほかに、二組。男二人と、男一人である。二人客はビール瓶を間に何を話すでもなくたばこを指に挟んでただ憩っており、一人客はハムの入ったサラダをつまみにこれもビール瓶を傾けている。
 続いて女給に目をやった。
 稲子に接客したのは蚊のように細作りな娘だ。紅紫の派手な銘仙に、いまや女給の符号となった白いエプロンを着けている。上背がないので背中の蝶々結びがやたらと大きく映り、まるで白鷺でも背負っているよう。十九より年嵩としかさに見える。
 この娘ではない、と、稲子は店内に視線を泳がせた。目当ての女給は、「竹久夢二の絵みたいな、いやに色っぽい柳腰の美人」なのだ。
 厨房の手前に、もう一人の女給の後ろ姿がある。こちらは長身で、朽葉くちば色の銘仙を着ている。色合いは地味だが、流水のような大きな柄がすらりとした身体に似合っている。もちろん白いエプロンを着けているのだが、紐の結び方がなんだかだらしない。蝶々結びではなく縦結びのようで、左右非対称にひん曲がって片方だけが長く垂れている。せっかく洒落たエプロンを着けているのに――と、つい手を伸ばして直してやりたくもなるが、その崩れかけた感じが妙に扇状的であることに気づき、稲子は悄然しょうぜんとした。

 嶋津輝『カフェーの帰り道』/東京創元社

今宵の一冊は、嶋津輝著『カフェーの帰り道』。

つい先頃発表された、第174回直木賞受賞作品の本作。お読みになった方も多いと思います(少々へそ曲がりな私は、受賞作!と大体的に宣伝されるとすぐには手を出さないことが多いのですが、この作品には珍しく惹かれました)。

明治24年創業、現在も手摺木版本を刊行する日本唯一の出版社である芸艸堂の『美術海』(明治期の工芸デザインの最先端を担った、神坂雪佳などをはじめとする有名無名の図案家創案による図案を集めた作品集)に収録されている図案を配したカバーも愛らしく、その下の表紙や見返しも凝っていて、装丁も楽しめる一冊です。

本来の店名は『カフェーアウグスティヌス』なのだけれど、看板を書き間違えており、ツケの代わりに置いて行かれた備前焼の西行法師をその前に置いて誤魔化している。店の前に陣取るその印象的すぎる目印ゆえに、いつの間にやら通称『カフェー西行』と呼ばれるように……本作の舞台は、そんなお店。

上野のはずれ、繁華街とも言えぬ場末の、少し寂れた小体なカフェー。そこで、穏やかな初老の店主に見守られながら、それぞれの事情を抱えて働く女性たち。

読み書きができないコンプレックスを抱えたリアル「夢二式美人」のシングルマザー、タイ子。多少の高学歴を鼻にかけ、文学に生きようとするも、そこまでの才能はない中途半端な自分に気付き焦るセイ。

裕福な家に生まれてしまったがゆえに、40手前まで引きこもり状態でただ安穏と歳を重ねている園子と、息をするようにくだらない嘘を吐くけれど、目端が効き意外と面倒見の良い美登里。

大正末に発生した関東大震災の打撃から立ち直り、昭和初期の繁栄を経て、また新たな戦争へ向かって規制を強めていく不穏な日々。そして戦争に突入し、敗戦。戦後の混乱―――そんな約30年ほどに渡る激動の時代に、確かに存在した『カフェー西行』という温かく長閑のどかな場所。そこに交錯する、それぞれの人生。

皆、ごく普通の市井に生きる女性たちだけれど、いわゆるシンプルに“良い人”はひとりもいない(たぶん店主のみ)。皆何かしらクセがあり、屈折していて、どこか蓮っ葉というか、ほんの少し浮ついたものを持っている。等身大で、素直。特別な才能があったり、人間ができているわけでもない。かと言って悪人でもない。とても人間らしい“普通の人々”。

そんな登場人物たちが、一生懸命生きている。

ひらひらと浮ついた白いエプロンが象徴する“女給”という職業―――それはある意味、時代を映す鏡のようなものだったと言えるのかもしれません。

今宵の一冊より
〜流れるライン〜

後の世において、まさに『大正浪漫』を体現する女性像を描き出し、一世を風靡した竹久夢二。その「夢二式美人」という概念が確立されたのは、明治40年5月の新聞記事においてのこと。

豊かな黒髪にたおやかでしなやかな肢体、もの問いたげな潤んだ大きな瞳、愁いを帯びた表情……夢二が描き続けた特徴的なその美人像は、現代でも絶大な人気を誇ります。

単衣向きの素材のひとつ、薄くて軽やかな大島紬。

立涌とも流線ともつかない個性的な柄が目を惹く、印象的な一枚です。流れのある柄には直線的な柄を組み合わせた方が相性が良いことが多いのですが、ここはあえて流線を重ねたコーディネートに。

不規則な曲線を重ね、引き合うベクトルでバランスを調整しながらその濃度を増していくような組み合わせが、世に言う『夢二式美人』のどこか不安定で危うい雰囲気を彷彿とさせます。

きっぱりとした直線の着物を曲線の身体に纏わせることで、かえって体のラインを拾って強調させてしまうことがありますが(夢二の絵はその効果が絶大)、実際に着るならばこんなふうに不規則、かつ大胆に織り出された柄を選んだ方が、目眩し効果もあってすっきりとした着姿が叶います。

帯周り

小物:スタイリスト私物

イラストっぽいタッチで描かれた松が魅力的な、ざっくりとした生紬の帯。そして半衿のラインも、どことなく夢二の絵に通じる味わいが。

当時の流行色のひとつでもあり、夢二の絵に静謐な空気をもたらす色ー薄青うすあおーの帯揚げで胸元に抜け感を。

帯留には、カフェー前に佇む西行さんを思わせる笠と短冊を模ったアンティークの木彫の帯留を添えて。

白いフリルのエプロン

小物:スタイリスト私物

カフェーの女給さんのアイコンでもあった白いフリルのエプロン。古写真などの資料で見る限り、実際に使われていたのは胸当てのあるタイプが主流だった(前掛けタイプのお店も中にはあったようですが)ようなので、カフェー西行のエプロンもきっとそのタイプだったろうと思うのですが……なんとなく“だらしなくひん曲がって結ばれたリボン”という描写から、こういう後ろ姿を想像してしまったので、こちらの前掛けタイプを。

着物が日常着であった頃の、普段遣いの帯はかなり柔らかいものが(芯が入っていないような、ふにゃふにゃのものも)多く、当時を描いた映画などを観ても、前掛けの紐はお太鼓の上から気にせず豪快に紐を結んでいます(家事労働をするのが大前提である日常着、着付け自体が現代のようにきっちりかっちり、シワひとつなく!というものではないため、それもある意味当然。帯板などもしていないので、お太鼓だけでなく、前もシワが入ってくしゃっとなっているのが普通でした)。

肩紐&胸当てのあるエプロンと違い、前掛けタイプはこの紐で身体に留めているので、どうしてもぎゅっと紐を結ぶ必要がありますが、しっかりした芯を入れて仕立てられた現代の帯では、こんなふうにお太鼓の上から結ぶのはちょっと躊躇してしまいますよね。

アンティークの帯は、上から紐を締めてお太鼓がぐしゃっとなっても意外と跡も残らず気にならないことが多いのですが、現代ものだとそうはいかない。一度シワになってしまったら生地自体が折れて跡が取れなくなってしまうものも多いので、お太鼓の中を通して“て先”の上に紐を結ぶようにした方が安心です。ちょっと取って付けたようで、後ろ姿の“働きもの感”は薄れてしまいますが……(紐が長くて、前に回してリボンにできるタイプだと収まりが良いかも)。

今宵の一冊より
〜女給スタイル〜

 美登里はそこで初めて、自分はなぜ女給を続けているのだろうかと考えた。
 女給になったのは、たまたまカフェー西行の前を通りかかり、募集の貼り紙を目にしたからだった。働き出してから菊田に、「その格好、似合うねぇ」としみじみした口調で褒められ、銘仙に白いエプロンを着けるスタイルが自分に思いのほか似合うと気づいた。長時間労働でも店が空いているからきつくはないし、他にやりたいこともない。この格好が似合ううちは女給を続けていくのだろうとぼんやり考えていた。
「事情なんてないわ。ただ、この格好が自分に似合うと思うだけ」

「お二人は、銘仙を着てらっしゃるのね?」
園子は美登里たちの着物に目を留める。銘仙は、あまり上質ではない繭を使って平織した絹物で、化学染料で着色されていて安価である。カラフルな総柄のものが多く、ひらひらした女給のエプロンに不思議と合う。
「いいですわねえ。やはり女給には銘仙ねえ。松坂屋はずいぶん銘仙が揃っているらしいから、今度何枚か誂えようかしら」
にっこり笑って優雅なことを言う。美登里も嘉代も、仕事で身に着けている銘仙はすべて古着だ。いくら安価でも、松坂屋で新品を誂える余裕などない。

 嶋津輝『カフェーの帰り道』/東京創元社

本作中で女性たちが着ているのは、ほとんどがこの当時の一般庶民のおしゃれ着として主流であった銘仙。

大正浪漫の香りを湛え、現代でもアンティーク着物の代表格として人気の高い銘仙。大正〜昭和初期においては、洋の文化への憧れを背景に、アール・デコやキュビズムの影響を受けたモダンでポップな柄が、伊勢崎、足利、秩父、桐生、八王子などの代表的な産地において数多く生産され大流行しました。

抜粋部分でも触れられているように、上野松坂屋は特にその取り扱いが多く「銘仙は松坂屋」と言われたほど。

エレベーター

この美登里の章の冒頭で、上野松坂屋における日本初の“昇降機(エレベーター)ガール”の話題が女給たちの間で語られるシーンがありますが、現代でもその当時の雰囲気を残したエレベーターは健在。

この昇降機をはじめとする最先端設備を備えた、ルネサンス様式の絢爛たる上野松坂屋本館が開店したのが昭和4年4月のこと。

ご紹介するのは、その直後である昭和六年の生地見本帳より復刻された西陣御召。こっくりとした明るい辛子色と赤の縞がクラシカルかつ大胆で、魅力的。当時の雰囲気を彷彿とさせます。

『東の銘仙、西の御召』と並び称されるほど、当時人気の高かった御召。

銘仙においても御召においても、古着か新反かだけでなく、新たに生産される品物においてもその質や値段はピンキリだったわけですが、その生活水準によって精一杯のおしゃれを楽しんでいたことと思います。

ちなみにこの御召はかなり上等な方で、当時の金額に換算すると一般家庭の月給以上のお値段。……ということは、こんな着物を着ることができたのは、本作の登場人物の中では良いお家のお嬢さまである園子のみであったでしょうけれど。

大人の遊び心のある帯

小物:スタイリスト私物

こういう強さのある着物にも負けず、しっかりバランスを取りながら存在感を発揮する、大人の遊び心のある帯。籠盛りのフルーツを模った珊瑚の帯留でモチーフを重ねたら、帯周りにいっそうの奥行きが生まれます。

味わいのある掠れたタッチが魅力的なさくらんぼのこの帯、主張が強く合わせる着物を選ぶ……かと思いきや。ポップなようで意外にシックな配色で描かれているため、紺やグレーなどの落ち着いた色の無地感覚の着物にも違和感なく馴染み、帯が主役の着こなしが楽しめます。

あるいは、この地色のようなベージュ系の着物に合わせて、ここで使った帯揚げのように柄のひと色を小物に差したワントーンのコーディネートにしてもきっと素敵。

さくらんぼに使われた色を見ると、ほとんどの色の着物に合いそうなので、個性的なわりに意外なほど着物を選ばない帯と言えそうです。

しっとりとした艶のある素材感

小物:スタイリスト私物

現代で目にすることの多いジャガード織機による紋織御召よりも厚みがあり、しっとりとした艶のある素材感は、御召緯おめしぬきと呼ばれる強撚糸を用いて御召機おめしばたという専用の機によって織られたもの。

強い撚りのかかった糸が生み出すその風合いは適度な張りがありつつもしなやかで、染めと織りの中間のような着心地の良さを叶えてくれますが、同時に湿気に弱く縮みやすいため、袷に仕立てると表のみが縮んで裏との釣り合いが悪くなり裾が袋状に膨らんでしまうことがあります。

そういった意味でも、こういったカジュアル向けの縞御召は、単衣で着用するのが最もその良さを発揮すると言えるのかもしれません(単衣が活躍する季節が長い現代では特に)。

2025.07.08

着物の基本

銘仙(めいせん)とは?産地ごとの特徴や歴史、着用シーンについてご紹介!

今宵の一冊より
〜無地の着物〜

「そうそう、着物の話だった」向井は話を戻した。「あんた、無地の着物は持ってないのかい?」
 セイは、一枚だけ群青色の無地の着物を持っていた。洋服に直すには派手な色だし、店で着るのに無地では地味だから仕舞ってあるのだ。古着屋に売ってしまおうかと思っていた。
「なんでそれを着ないんだい?」
「昔は店で着てたのよ。白いフリルのエプロンが映えたからね。でも今はこの何でもない前掛けだけでしょう?無地の着物なんか着たら旅館の仲居さんみたいに落ち着いちゃいそうで」
「明日からそれを着るんだな」
「ええ?」
「今晩よく寝押しして、ぴしっとさせて着るんだ。ちょっと短めに着付けるんだぜ。その代わり、衿は大きく抜いてもいい。くれぐれも姿勢は良くしてな。背中に物差し入れたみたいにつんと済ましてるんだぜ」

 嶋津輝『カフェーの帰り道』/東京創元社

渦巻きのようでもありレコードのようにも見える、抽象的な地紋が大胆に織り出された無地御召。深い孔雀緑の色も相まって、なんとも言えず個性的な着こなしが叶いそうな一枚です。

レトロな雰囲気の欧風鉄柵文が織り出された半巾帯は、リバーシブル。小格子の柄も見せる結び方にすると、後ろ姿にも表情が生まれます。

煉瓦造りの古い洋館をイメージして、衿元には花の絵が入ったいろんな形の額が刺繍された半衿を。ここでは、セイのイメージでシャープにまとめたかったので煙水晶の帯留を合わせたけれど、洋館の庭には欠かせない、ちょうど今の季節の花でもある薔薇の帯留も似合いそう。

胸元には、レトロな絞りの帯揚げを。

現代の感覚では、帯揚げの素材感はかなり重要。その質感によって、見た目のすっきり加減も着ている本人の涼しさも違うため、通常なら紋紗など単衣に合う軽やかな素材感の帯揚げをおすすめするところですが、こんなふうに世界観を楽しむなら、箪笥に眠っているレトロな絞りの帯揚げを活かすチャンスです。

良くも悪くも、かなり着姿の印象(コーディネートの雰囲気も、着付けの綺麗さも)を左右する重要な存在である帯揚げ。

無地の着物においては特にそれが顕著で、ここを変えるだけで全体の印象ががらりと変わります。

ちなみに。

映画や古写真などで大正〜昭和初期あたりの日常的な着物姿を見ていると、夏でも冬でも絞りの帯揚げ一辺倒で、真夏の装いにも、ぼってりと暑苦しい絞りの帯揚げをしているのが普通だったりします。

夏の帯揚げ、帯締めが一般化したのもわりと近年のこと。

絽の帯揚げは、明治ごろにはすでにあった(もともと、単なる生地を用いていたということを考えたら自然なことですよね)ようですが、何よりも小物を取っ替え引っ替えできるなんて裕福な家庭の奥さまお嬢さまに限られた話なので、生活に余裕のない一般庶民にはあまり関係がない。夏の帯締めに至っては、世に生まれたの自体がせいぜい50〜60年前くらいのことなので、今現在『こうあらねば』とされているものの歴史が意外とそう古いものでもないという好例と言えるでしょう。

「馬鹿だな。古いか新しいかより、似合うかどうかが肝なんだよ」
馬鹿と言われて思わずカッとなったが、男の勢いに押されて口をつぐんだ。
「いいか。流行りの髪型にすれば、自分が流行に敏感な人間だってことは周りに知らせることができる。でもそれだけだ。一時期断髪が流行ったけど、本当に似合ってたのはほんのわずかだったろう?」

「昔買った着物よ。あたしもあんまり気に入ってないんだけどね」
「そうだろう。気に入ってないものを着ていると自信がなくなる。あんたの態度にどこか卑屈さが垣間見えるのはそのせいさ」

 嶋津輝『カフェーの帰り道』/東京創元社

けだし名言。

理髪師の向井とセイのやりとりは、現代の私たちにも刺さる濃い内容。

抜粋部分に続いて「ぼやけた色の柄物を着るくらいなら、あんたみたいな人には無地の方がいいんだ」と勧める向井のアドバイスは的確で、読んでいて心地よいくらい。

セイの体格や雰囲気をストレートすぎるほどに指摘しつつ、でも自分の意見をただ一方的に押し付けるのではなく、セイがそのアドバイスを受けて自分で考えた着こなしや化粧にも気付いてさりげなく褒めてくれる(ちょっと頭でっかちなところのあるセイが、惹かれてしまうのも無理はないなと……)。

本作の中で、いちばん好きなシーンです。

今宵のもう一冊
『襷がけの二人』

嶋津輝『襷がけの二人』/文藝春秋

嶋津輝『襷がけの二人』/文藝春秋

 千代は階段の途中で立ち止まり、お初さんの姿を見詰めた。
 お初さんがあまりに綺麗だったからだ。外出着をまとって、きちんとお化粧もしている。
 ふだんのお初さんは着古した木綿に割烹着を重ねて、それでも上背があって姿がいいから、同じような身なりの千代やお芳ちゃんよりは段違いに見栄えがする。襷がけをして立ち働く姿も、千代やお芳ちゃんは袖が不恰好に丸まっていかにも労働中という風情なのに、お初さんは袂が小さな翼のように畳まれて背中の紐のバッテンすら装飾のように映えている。それがさらに今日は張りのある縞柄のお召しを着ているので、きりっとしたお初さんの魅力が凄いくらい引き立っているのだ。お召しは男が着るような焦げ茶と黒の渋い柄だが、わずかに光沢があって、よそゆきであることが一目でわかる。うすい緑色の帯留は、何の石だろうか――、千代にはわからないが、暗い色合いのなかでつるりと光る楕円形の石が、なんとも粋である。ああ、お初さんはなんて垢抜けているんだろう、と千代は誇らしい気持ちになる。

 嶋津輝『襷がけの二人』/文藝春秋

今宵のもう一冊は、同著者の『襷がけの二人』。こちらも昨年、直木賞の候補になっていましたね。

大正〜昭和、ちょうど『カフェーの帰り道』と同じ頃。その時代の常で、親の決めたまま裕福な家に嫁ぎ若奥様となった千代と、その家の女中頭である初衣はつえーお初さんー。

決して聡いとは言い難く、良くも悪くも鈍感だけれども生真面目で素直、誠実な千代と、もとは芸者で、人には言えぬ経験もしてきた、粋で垢抜けていて、気働きが出来、料理上手。人生においての良き先輩であるしっかりもののお初さん。生活をともにしていく中で二人の間には、形としては一応主従関係であるけれど、仲間であり師弟、そして家族でもある……ひと言では括れない、深い情愛が生まれ結ばれていきます。

戦禍において離れ離れとなり、それぞれが必死に生き抜いたのち、再びふたりの縁は結ばれ、ともに生きることになる。思いもかけぬ、新たな形で。

ただ誠実に日々を生きる。

そんな二人の人生が、襷がけのように交わる―――

そしてまた、共に。

その日々が、穏やかに綴られた物語です。

今宵のもう一冊より
〜雨を愉しむ〜

作中、旦那のお供で帝国劇場での観劇に向かうお初さんの装い。この御召もたぶん、先程ご紹介した芥子と赤の縞の西陣御召のような素材感だったろうと思います。

お初さんが着ているのは“男もののような焦茶×黒の縞”という描写で、私自身もかなり好みなのですけれど、先月もそんな雰囲気の渋めのコーディネートをご紹介してしまったので、ここではこれから暑さを増していく季節に重宝しそうな白ベースの本塩沢をセレクトしてみました。

“本塩沢”とも呼ばれる塩沢御召は、撚りのかかった糸で織られた独特のシボ感が生み出すしなやかさと、さらりと軽い着心地で単衣に合う織物の代表的な素材。

白鼠地に藤鼠〜銀鼠の繊細なグラデーションで浮かび上がるぼかしの縞が、粋な雰囲気がありつつも上品な印象に。揺れのないまっすぐな縞より柔らかさがあり、身体のラインをうまくぼやかしてくれるので、縞を着てみたいと思いつつもその強さにちょっと臆してしまう……という方には手を通しやすいのではないでしょうか。

5月の中旬までは軽めの単衣帯、末以降には夏帯を合わせた着こなしで。

そして暑さの残る9月にも、涼やかに着られそうな一枚です。

駒絽地に描かれた、紫陽花の帯

小物:スタイリスト私物

駒絽地に描かれた、鮮やかに咲き誇る大輪の紫陽花。柔らかなぼかしの縞を雨に見立て、梅雨の訪れを思わせる組み合わせ。

お初さんのイメージなら衿元はきりりと白半衿かもしれませんが、うっすらと淡い色合いで流水が刺繍された麻の半衿を合わせたら、硬くなりすぎずこなれた印象に。

水晶の帯留

小物:スタイリスト私物

抜粋部分では“うすい緑色の石”とあるので、翡翠かなと思いますが……ここでは水晶の帯留を。

雨の中、水の皮膜越しに見る濡れた紫陽花の色を思いながら。

こんな柄に出会ったら、コーディネートを楽しむしかないでしょう!と言いたくなるような、そんな帯。

赤白橡あかしろつるばみの甘さのあるスモーキーな地色と、深みのある紫で雨筋と波紋を描いたリズミカルな柄は、程よいポップさもあり、遊び心が刺激されます。

雨のシーンが印象的な演目の観劇に。あるいは、絶対晴れて欲しい街歩きのお出かけに“願掛け”として?(効果のほどは不明ですけれど……)

コーディネートを楽しむしかないでしょう!と言いたくなるような、そんな帯。

小物:スタイリスト私物

帯の地色に通じる半衿の色。水玉の刺繍が白なので、べったりと重くなりすぎず、顔周りに明るさをもたらしてくれます。

帯の柄色とリンクした濃色の帯揚げで胸元を引き締めつつ、無地場には存在感のある銀細工の傘の帯留をぴりっと効かせて。

涼感を保ちつつの暖色コーディネート、そのポイントは色数を抑えつつメリハリを付けた小物遣い。

季節のコーディネート
〜紗袷:季節の実り〜

『カフェーの帰り道』は、そのタイトル通りカフェーが舞台。

『襷がけの二人』も、主人公たちが何せ女中さんなので、そのお仕事のうち大きな要素を占めるのは食事の支度。時代背景もあり、台所でのシーンが多く描かれます(大正時代としては最先端だったと思われる、牛タンのシチューをはじめとした手の込んだ料理がたくさん登場)。

だからというわけでもないのですが(笑)、本稿でのコーディネートに使う着物を探していたら、こんな着物が目に留まってしまい……

胡瓜に茄子、蕪、とうもろこし。そして枇杷。薄茶の紗の内側には、紗袷の季節ー初夏ーの旬のものだけでなく、筍や栗など、さまざまな四季折々の実りが描かれています。

山路取りのような大らかな襷格子が織り出された、組み織りの八寸帯を合わせ、青々と実った季節の恵み、麦の穂が描かれた扇子を添えて。

重要な要素“抜け感”

小物:スタイリスト私物

鮮やかに深い常盤色ときわいろと柔らかな生成りとの段ぼかしの帯揚げは、抜け感と差し色の効果を同時に発揮する優秀小物。

シックな色同士の組み合わせには、必須と言える重要な要素“抜け感”。生成りの二分半紐で、すっと細いラインを効かせて。

さやえんどうの帯留

小物:スタイリスト私物

山盛りの野菜籠、そこからぽろりと溢れ出たさやえんどう……

そんな情景を思い浮かべながら、彫金のアンティークの帯留を添え野菜尽くしのコーディネートに。

他の方と被らない個性的なお洒落が楽しめそう

小物:スタイリスト私物

秋草や流水といった比較的ベーシックな夏らしい柄の多い紗袷ですが、これほどに趣味性の強い柄は珍しいので、他の方と被らない個性的なお洒落が楽しめそう。

紗袷は初夏の季節限定の楽しみではあるけれど、こんな色柄ならあえて秋に着ても良いだろうし、外国の方との交流の場などでは格好のカンバセーションピースとして話が盛り上がるのではないでしょうか。

2025.07.04

エッセイ

紗をかける 幾層もの重なりの、その奥に 「徒然雨夜話―つれづれ、あめのよばなし―」 第一夜

『襷がけの二人』は、表紙やあらすじから想像した内容とはかなり違った展開だったので、正直ちょっと戸惑う部分もありつつも、そう誰しもが得られるとは言い難い、千代とお初の、ある意味“戦友”とも言えるような関係が、とてもとても貴重であることは確か。

それが同性同士であれ、異性との関係であれ……どういう関係の相手であったとしても、“この縁を得られたのだから、他はまぁもうどうでもいっか”と思えるほどの。

それは決して、恋は盲目〜と言ったような排他的な意味ではなく、この縁に至るまでに経験した悲しみも虚しさも憤りも……そのすべてが浄化され、ただ暖かな想い出として今を照らすような。

そんな幸せな人間関係を、その手にすることができた人は世にどれほどいるでしょうね。

そしてそれが、どれほど得難く貴重なことかを自覚できているでしょうか。

さて次回、第五十八夜は―――

夏の夜の、幻のような邂逅。

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