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色彩と陰影を纏う〜小説の中の着物〜夏目漱石『三四郎』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第四十九夜

色彩と陰影を纏う〜小説の中の着物〜夏目漱石『三四郎』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第四十九夜

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小説を読んでいて、自然と脳裏にその映像が浮かぶような描写に触れると、登場人物がよりリアルな肉付きを持って存在し、生き生きと動き出す。今宵の一冊は、夏目漱石著『三四郎』。夕日の中、団扇を持った美禰子の姿は、ただただ“奇麗な色彩”として、晴れて帝大生となり上京したばかりの三四郎の目に焼き付いた。眼前に現れるその度に、違う面から光が当たり影ができ、まるで彫刻のように立体として彫り上げて形作られていく、美しく聡明で都会的な美禰子と、そんな彼女に惹かれていく三四郎。すれ違うふたりの関係と、最後まで美禰子が手放すことのなかった“団扇”が象徴する“矛盾”とは―――

2025.06.29

まなぶ

愛嬌も芸のうち 〜小説の中の着物〜 吉川潮『浮かれ三亀松』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第四十八夜

今宵の一冊
『三四郎』

夏目漱石『三四郎』/集英社文庫

夏目漱石『三四郎』/集英社文庫

 ふと眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、池の向う側が高い崖の木立で、その後が派手な赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向うから横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると岡の上は大変明るい。女の一人はまぼしいと見えて、団扇を額のところにかざしている。顔はよく分らない。けれども着物の色、帯の色はあざやかに分った。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履を穿いている事も分った。もう一人は真白である。これは団扇も何も持っていない。ただ額に少し皺を寄せて、対岸むこうぎしからかぶさりそうに、高く池のおもてに枝を伸ばした古木の奥を眺めていた。団扇を持った女は少し前に出ている。白い方は一歩ひとあし土手のふちから退がっている。三四郎が見ると、二人の姿が筋違すじかいに見える。
 この時三四郎の受けた感じはただ奇麗な色彩だという事であった。けれども田舎者だから、この色彩がどういう風に奇麗なのだか、口にもいえず、筆にも書けない。ただ白い方が看護婦だと思ったばかりである。

〜中略〜

 二人の女は三四郎の前を通り過る。若い方が今まで嗅いでいた白い花を三四郎の前へ落として行った。三四郎は二人の後姿をじっと見詰めていた。看護婦は先へ行く。若い方が後から行く。華やかな色の中に、白いすすきを染抜いた帯が見える。頭にも真白な薔薇を一つ挿している。その薔薇が椎の木陰の下の、黒い髪の中で際立って光っていた。

夏目漱石『三四郎』/集英社文庫

今宵の一冊は、夏目漱石著『三四郎』。

明治41年9月1日から年末にかけて、新聞小説として連載された本作の主人公は、この9月から晴れて東京帝大生となる小川三四郎。

当時大学の新学年は9月始まりだったため、この物語も、その直前の8月に三四郎が生まれ育った九州の地から上京するところから始まります。

朴訥とした田舎の学生三四郎が、何もかもが新鮮で目に眩しく映る大都会東京において、関わる人々や経験する出来事を描いた青春小説ですが、同時に、当時の習俗や実際に起こった事件、広告的な季節の風物詩なども絡めながら、日々発信される新聞という形態が持つ強みを遺憾なく発揮した画期的な小説だったようです。

言うなれば、ほぼリアルタイムで更新される現代のSNSのような役割を果たしていたと言えるでしょうか。

そんな本作において、三四郎が出会う“宿命の女ファム・ファタル”―――それが、里見美禰子さとみみねこ

ゆとりのある家柄に生まれ、教養と洗練された振る舞いを身につけた、華やかで都会的な雰囲気を持つ美禰子に、三四郎が知らず知らずのうちに惹かれていく様子が描かれます。

本作の中では、着物だけでなくさまざまな場面で“色彩”への言及があります。

その取り上げ方は、具体的な色名というよりは、どこか“観念的”といった方が良いかもしれません。

美禰子に関しては特に、単純な◯◯色、という表現はそれほど多くはなく、冒頭の抜粋部分からも窺えるような……存在感、あるいは塊としての色彩の力。

その強さや質、陰影ー光や艶の有無ーによる印象の違いが語られることが多く、それによってさまざまな角度からの彼女の人物像が立体感を持って形作られていきます。

今宵の一冊より
〜ただ奇麗な色〜

“美禰子”という女性をくっきりと印象付ける、初出のシーンになりますので、この部分の描写はかなり重要。

赤煉瓦、木々の緑、夕方の光ーという景色の中で『鮮やかに分かる』ほどに“ただ奇麗な色”というのは、実は、選択肢がそう多くはないんですよね。

背景から考えて、赤(朱やピンクも含む)系、緑、黄はまずないですし、隣の看護婦さんを思えば、白も消える。鮮やか、という印象になりにくい黒や茶は最初から除外…となると、残るのは…?

遠目にもくっきりと際立つ“塊”としての色の強さを持ちつつ、織物であるがゆえの深みや奥行きも感じられる、冴えた瑠璃色の夏結城。

紬ですので普段着にはもちろんですが、これだけ華やかな色であれば、帯合わせ次第でちょっとした(格式を必要としない)集まりなど、少しハレ・・感が欲しい席にも着ていくことができそうです。

身体の動きにつれてうっすらと透ける朝顔の襦袢は、近くに寄って初めてわかるお楽しみ。

また、美禰子の描かれ方で最も特徴的だなと思えるのは、装いであれ行動であれ、必ずどこかに、なんとなく引っ掛かる……“違和感”?あるいは“矛盾”?があること。

わかりやすくただ無難というのではない、何か。クセの強さというか、ほんの少しのアク(あるいは毒)があるというか。

この初出のシーンにおいてのそれ・・は、髪に飾られた白い薔薇。

季節的にも、薄の帯との相性からも、なんとも唐突で不思議な気がして。でも、その“違和感”がいかにも美禰子らしいとも思える。

美しく華やかで、教養が深く、都会的で洗練された物腰。一見すると、何不自由のない生き方に思える……けれど。

でも、その内には、鬱々とした“何か”を抱えている。それが、知らず知らずのうちに、その行動に、あるいは容姿に、“矛盾”としてこぼれ出ているのかもしれません。

美禰子の複雑な人物像を象徴するかのような、そんなアイテムとして描かれているように思います。

薄が描かれた袋帯に、白珊瑚の薔薇の帯留

小物:スタイリスト私物

風に靡くすすきが描かれた袋帯に、白珊瑚の薔薇の帯留を。

普段なら合わせないアイテムも、その違和感が美禰子らしさの最後の(かつ重要な)アイテムであるように思えてくるから不思議。

ほのかに透ける夏結城

ほのかに透ける夏結城、その奥にふわりと浮かぶ朝顔の花。
単衣から盛夏を通して楽しむのにぴったりな、程の良い透け具合。

2025.07.04

よみもの

ふわふわの結城紬 「きくちいまが、今考えるきもののこと」vol.37

今宵の一冊より
〜木影の色〜

 挨拶をして、部屋を出て、玄関正面へ来て、むこうを見ると、長い廊下のはずれが四角に切れて、ぱっと明るく、表の緑が映る上り口に、池の女が立っている。

〜中略〜

 着物の色は何という名か分らない。大学の池の水へ、曇った常盤木ときわぎの影が映る時のようである。それを鮮やかな縞が、上から下へ貫いている。そうしてその縞が貫きながら波を打って、互いに寄ったり離れたり、重なって太くなったり、割れて二筋ふたすじになったりする。不規則だけれども乱れない上から三一の所を、広い帯で横に仕切った。帯の感じには暖味あたたかみがある。黄を含んでいるためだろう。
 うしろを振り向いた時、右の肩が、あとへ引けて、左の手が腰に添ったまま前へ出た。半帛ハンケチを持っている。その半帛ハンケチの指に余ったところが、さらりと開いている。絹のためだろう。―――腰から下は正しい姿勢にある。

夏目漱石『三四郎』/集英社文庫

ここで描写された柄は、立涌風のよろけ縞でしょうか。付かず離れず、均等に並んで、左右対称に波打つ縞がパターン化されたシンプルな立涌柄ではなく、入り混じりかなり動きもあるアレンジされた柄のよう。とは言え“不規則だけども乱れない”とありますので、太さの違う2種類の立涌を少しずらして重ねたようなイメージかもしれません。

地色は、池の水面、そこにかかる木の影、そして水底の色ー千草色から青碧、深い黒緑あたりでしょうかーといった渋めの緑系のグラデーションなのか、それとも木の影の色ー黒緑ーひと色か。美禰子なら、後者かもしれないな……。

そして、それを貫く“鮮やかな”縞。

この鮮やかさが“色”のことだとすれば、紫や黄など補色や反対色の強い色が縞として入っている?それとも……濃い色に太さのある白い縞がぱきっと入っているのかも。どちらにも解釈できますね。

著者がどんな柄を思い浮かべて(あるいは、見て)このような描写になったのか、実際に見てみたくなります。

しなやかな紋紗地に、有松鳴海絞りが施された紋紗の小紋。

深みのある黒緑にランダムに散る菊塵色の絞りのラインが、光る水面や木洩れ陽のような印象も受けます。

艶やかな老松色に、テナガザルが遊ぶ微笑ましい情景が描かれた帯を合わせて。

2025.07.05

よみもの

ちょっと贅沢がお洒落なり。紋紗のコート 「古谷尚子がみつけた素敵なもの」vol.18

松煙染めで表された帯。

小物:スタイリスト私物

松煙染めで表された程良い甘さのある色遣いが、とぼけたテナガザルの表情とも相まって不思議な世界観を醸し出します。

大人の可愛らしさと、遊び心のある組み合わせ。

初めてお会いする方がいるような集まりでも、カンヴァセーションピースとなって話が広がっていきそうな印象的な着姿に。

松煙染めで表された帯。

松煙染めで表された帯。

この生地のしなやかさと透け感が、濃色同士の組み合わせでも涼感を損なうことのない着こなしに。

単衣から盛夏の期間を通じて、長く楽しめそう。

そしてこのシーンの流れの中で、もうひとつ興味深いのがこの描写。

 女は腰をかがめた。三四郎は知らぬ人に礼をされて驚いたというよりも、むしろ礼の仕方のたくみなのに驚いた。腰から上が、風に乗る紙のようにふわりと前に落ちた。しかも早い。それで、ある角度まで来て苦もなく確然はっきりと留った。無論習って覚えたものではない。

夏目漱石『三四郎』/集英社文庫

持ち物の上質さを物語る絹のハンカチの描写と、その後に続くこの数行で、美禰子の美しさが、着物の色柄がどうこうという以前に、育ちの良さと身に付いた姿勢やこういった無駄のない所作に基づくものであることがわかります。

そして、そこに気づく三四郎も、やはり同じように“お育ちが良い”ってことなのでしょう。

また、違うシーンですが、普段は光らない素材を着ていることの多い美禰子が、三四郎が訪問した際、応接室に彼を待たせて光る素材を着て現れたことに、わざわざ自分に会うために着替えてくれたのかと心ときめかせる……といった描写もあったりして(結局それは、三四郎の期待ハズレに終わるのですが)。

人物像や登場人物同士の関係性に厚みを加える、こういった日常生活のさりげない描写が多く描かれ、楽しませてくれます。

今宵の一冊より
〜袂にこぼれる襦袢の彩(いろ)〜

 女はしばし逡巡ためらった。手に大きなバスケットげている。女の着物は例によって、分らない。ただいつものように光らないだけが眼についた。地が何だかぶつぶつしている。それに縞だか模様だかある。その模様がいかにも出鱈目である。
 上から桜の葉が時々落ちてくる。その一つがバスケットの上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれて行った。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。

〜中略〜

 女は白足袋のまま砂だらけの縁側へ上がった。あるくと細い足の痕ができる。袂から白い前垂まえだれを出して帯の上から締めた。その前垂の縁がレースのようにかがってある。掃除をするにはもったいないほど綺麗な色である。女は箒を取った。
「一旦掃き出しましょう」といいながら、袖の裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へ担いだ。奇麗な手が二の腕まで出た。担いだ袂の端からは美しい襦袢の袖が見える。

夏目漱石『三四郎』/集英社文庫

遠目に見て、すれ違って…徐々に近づきつつあったふたりが、ようやく顔を合わせ、会話を交わす。

何かと調子良く三四郎を振り回す友人、与次郎の引っ越しに際し手伝いにきたふたりが、新居で共に掃除に勤しむ(当事者である本人は掃除丸投げで不在……笑)シーンですが、このときの長襦袢の袖の描写が印象的。

続く三部作のひとつ『それから』にも、似たようなシーンがあるので、一般的に良く見られる日常的な風景だったのだろうと思います。あるいは、著者にとっての重要な萌えポイント(笑)だったのかもしれません(長襦袢に言及する箇所が、何ヶ所かありますし)。

三千代は手ぬぐいをねえさんかぶりにして、友禅の長襦袢をさらりと出して、たすきがけで荷物の世話を焼いていた。

夏目漱石『それから』/角川文庫

秋の中に立つ女、まさにそんなイメージの“野風のかぜ”と銘打たれたこの着物。

程良い透け感と張りのある軽やかな素材感が魅力の紗紬地に少しだけ甘さを感じる淡い煤竹色で染められたのは、穂花が風に揺れる初秋の野の風景です。

衿元をゆったりと合わせ、深みのある葡萄色の麻の半衿をたっぷり見せた着こなし。

帯の素材は、なんとも言えないニュアンスのある柳色に染められた、ぜんまいの繊維が織り込まれた柔らかい質感の絹紅梅。

程良い透け感と張りのある軽やかな素材感が魅力の紗紬地。

小物:スタイリスト私物

半衿、袖口にのぞく襦袢、帯揚げのぼかしと、さまざまなニュアンスの紫を散らして。

無地の前帯の、微塵格子が織り出されたその独特の味わいのある素材感を活かして帯留を……と考えたとき、シンプルにいくなら秋草や虫籠といった王道のモチーフ。

“江戸の粋”を取り上げた前回のコラムであれば、迷いなくそんな組み合わせにしたと思うのですが、本作の“宿命の女ファム・ファタル”ー美禰子ーには、それではちょっと……物足りない。

そんなふうに、“普通じゃない”けど“なんか、らしい・・・よね”を確立してしまえたら、それはもう、その人の“スタイル(個性)”となります。

クラシカルで、モダン。
教養に裏打ちされた洗練と、都会的なシャープさ。

すっきりと無駄がなく、でも彩りが華やかで強い存在感がある。
女性らしい、程良い甘さと柔らかさ。遊び心があり、ほんの少しの…ひと匙の毒も潜む。

美禰子の装いは、そんなイメージ。

……ということで、帯留には洋のニュアンスが感じられる四角いヴィンテージの煙水晶を。

大胆で色鮮やかな唐花の意匠の紅型の帯。

小物:スタイリスト私物

大胆で色鮮やかな唐花の意匠が、お太鼓に紅型であしらわれたこの帯。

無地の前姿と後ろ姿の印象がまったく違って、振り返ったときのインパクトは絶大。そんなところも、美禰子のイメージにぴったりだなと思ったのでした。

袂にこぼれる艶やかな竜胆色が、後ろ姿をいっそう華やかに彩って。

今宵の一冊より
〜団扇を持つ女(ひと)〜

 「―――画といえば、この間大学の運動会へ行って、里見と野々宮さんの妹のカリカチュアーを描いてやろうと思ったら、とうとう逃げられてしまった。こんだ一つ本当の肖像画を描いて展覧会にでも出そうかと思って」
「誰の」
「里見の妹の。どうも普通の日本の女の顔は歌麿式や何かばかりで、西洋の画布カンヴァスにはうつりが悪くっていけないが、あの女や野々宮さんはいい。両方ともに画になる。あの女が団扇うちわかざして、木立をうしろに、明るい方を向いているところを等身ライフサイズに写してみようかしらと思ってる。西洋のおうぎ厭味いやみでいけないが、日本の団扇は新しくって面白いだろう。とにかく早くしないと駄目だ。今に嫁にでも行かれようものなら、そうこっちの自由にいかなくなるかもしれないからな」

夏目漱石『三四郎』/集英社文庫

三四郎と、画家である原口との会話。

前前々回のコラムー第四十六夜『衵扇のうちとそと』ーで、扇や団扇の歴史について触れましたが、中国のさしばに始まり、日本で扇の形に進化し発展したものがさらに海外へも広がって、そして、ある意味一周してこの抜粋した会話部分にあるような『日本の団扇は新しくって面白いだろう』の感覚につながっている。

流行や文化は巡るというけれど、それはたった数十年程度の話ではなく、数世紀にわたって風俗や様式の世界的な潮流を見た場合も結局同じ。その大きなうねりが、この部分に凝縮されているようで面白いなと思います。

2025.05.06

まなぶ

袙扇のうちとそと 〜小説の中の着物〜 阿岐有任『籬の菊』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第四十六夜

青みを帯びた鮮やかな紫の縦ぼかし。間に挟んだ白との対比で、いっそう際立つその色は、菫色とわずかに灰を含んだ紫苑色。この華やかな紫は、美禰子登場時の“ただ奇麗な色”、その数少ない選択肢のひとつでもありました。

そんな近江縮の着物に合わせたのは、涼やかな露芝と、夏を彩る季節の花々が描かれた団扇が染め抜かれた黒地の絽の名古屋帯。

この近江縮の着物は、半巾帯を合わせて浴衣としてカジュアルに装うのも良いですし、古代布や麻といったざっくりとした自然布の帯で縮の素材感を活かしたナチュラルな着こなしも似合いますが、こんなエレガントな染め帯を合わせてドレスアップしても素敵。

帯合わせ次第で出かけるシーンを選ばず、さまざまに楽しめる一着となりそうです。

程良い透け感と張りのある軽やかな素材感が魅力の紗紬地。

小物:スタイリスト私物

桔梗と女郎花が描かれた前帯の団扇には、露芝に散る露をひと雫捕らえて添えるかのようなガラスの帯留。

そして帯揚げには刺繍の蜻蛉が群れ、まだまだこれから佳境を迎える暑い夏に涼をもたらす初秋の気配漂うコーディネートです。

まるで、初秋はつあきの空気を纏って立ち現れる“宿命の女ファム・ファタル”ー美禰子ーのような。

本作において、教養があり都会的で洗練された、いわゆる“新しい女性”の象徴として存在する美禰子ですが、英語も話せて西洋の文化や文学にも通暁しているにも関わらず、登場から繰り返し描かれるのは、この“団扇”を持つ姿。

現代の感覚からすると、団扇というのはどちらかというとクラシックな趣を感じる小道具(きっとこの感覚は、本作中の時代でも、さほど変わらないでしょう)。

もしかしたらそれは、“新しい女としての生き方”を模索しているようでいながら、結局のところ兄に養われている身であり、生まれながらに手にしていたさまざまなものを手放してまで三四郎との間に何かを始めることもなく、最終的には「立派な人」との結婚を選択する美禰子が、ずっと抱え続けていた“矛盾”の象徴だったのかもしれません。

三四郎の田舎の母が、嫁にと望む許嫁いいなずけのお光に比較して、“新しい女性”の象徴のような描かれ方をしていますが、結局のところ美禰子もやはり本当の意味での“新しい女性”ではありえなかった。

この物語において主人公であるはずの三四郎自身は、さほど掘り下げることなくどこか平坦な印象で、淡々と日々を送っているように思えるのに対し、美禰子は現れる都度、違う面から光が当たり影ができ、まるで彫刻のように立体として彫り上げて形作られていく。そんな相反する描かれ方が面白いなと思うのですが、にもかかわらず三四郎にはその世代の若者としての妙なリアリティがあり、逆に美禰子には、どれほど立体的に彼女の人物像が立ち上がってきても、どこか“お人形”感が否めない。

それはやはり、著者である漱石の視点が、美禰子に対して、さほど熱がないように思えるというか……どこか白けたような、突き放した目で見ているように感じられるからなのかもしれないなと。

そう言えば……

物語の冒頭、上京する電車の中で知り合った女性から誘いをかけられ同宿することになってしまった三四郎が、どう振る舞うべきかと悶々としながら一晩を過ごす描写がありますが、動揺しまくってしきりとバタバタ仰ぐ三四郎の手の団扇と、同じ蚊帳の中でゆったりと団扇を使う女。

それぞれの手にあるこの“団扇”も、やはり、それぞれが抱える“矛盾”の象徴だったのかもしれません(そして、このときの女性の描き方の方が、漱石の筆がよほどいきいきとしているように思えるのは気のせいでしょうか)。

さて次回、第五十夜は。

彩色された写真は、現代の私たちにも時代の空気を伝えてくれる。

着色写真で腕を磨いた、最後の木版浮世絵師の物語。

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