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幸福学研究者 前野隆司さん(前編)「温故知新ー日本の美と健康を巡るー」vol.3

幸福学研究者 前野隆司さん(前編)「温故知新ー日本の美と健康を巡るー」vol.3

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着物家の伊藤仁美さんが日本の健康と美に対峙されている方をゲストにお招きし、ともに現代のより良い暮らしについて考える連載第2弾。今回は幸福学の第一人者として知られる前野隆司さんと、着物が人々の幸せに与える影響について対話を重ねます。前野先生の貴重な着物姿にも注目です。

2022.08.24

よみもの

櫻井焙茶研究所所長 櫻井真也さん(前編)「温故知新ー日本の美と健康を巡るー」vol.1

人が幸せになるためには?“幸福学の第一人者”と対談

インタビュアーの伊藤仁美さん

着物と親和性のある伝統文化。

美と健康、環境や社会に良い循環をもたらすものにフォーカスし、それらに対峙されている方との対談を重ねることで、“現代のより良い暮らし”を考えるー

伊藤仁美さんが着る本場結城紬

着物家の伊藤仁美さんが、先人の知恵や美意識をリスペクトし学びながらも、現代に再解釈、そして未来に繋ぐ“温故知新”な方々をゲストにお迎えする「温故知新ー日本の美と健康」。

第2回目のゲストは、幸福学の第一人者として知られる前野隆司さんです。

慶應義塾大学 前野隆司教授

慶應義塾大学 前野隆司教授

前野先生は学生時代に機械工学を専攻。大学院卒業後はキヤノン株式会社、カリフォルニア大学バークレー校訪問研究員、ハーバード大学訪問教授等を経て、現在は慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(SDM)教授兼、同大学のウェルビーイングリサーチセンター長を務めながら、幸福学を日本に定着すべく奔走されています。

幸福学とは、人間が幸せになるためのメカニズムを明らかにする学問。

近年、身体的・精神的・社会的に良好な状態を指す「ウェルビーイング(Well-Being)」というワードが注目され、地方自治体や企業などで住民や従業員の幸福度を高めようとする動きが活発になってきていますが、前野先生は15年も前から幸せの研究に努めてきました。

さまざまな研究の結果、ひとつ分かったのは「美しいものをつくる人は幸福度が高い」ということ。芸術作品はもちろんのこと、料理や音楽、ダンスなど、美を追求している人は心が豊かになるというのです。

慶應義塾大学 前野隆司教授

なかでも前野先生が注目したのは、着物。

そこには日本人の“美意識”、ひいては心の健やかさを保つ秘訣が詰まっているのではないか。そんな思いから、ご自身主催のセミナーに伊藤さんをゲストに呼ばれたことがお二人の出会いのきっかけとなりました。

慶應義塾大学 前野隆司教授

撮影は4月。羽裏のセレクトもお洒落

その後さらに着物に興味を抱き、伊藤さんのアドバイスのもとで数枚の着物を誂えた前野先生。今回お召しになっているのは、そのなかの一枚である『奥順』の本場結城紬です。

慶応日吉キャンパスのイチョウ並木にて、伊藤仁美さんと前野隆司さん

慶応日吉キャンパスのイチョウ並木にて、伊藤仁美さんと前野隆司さん

心を持つロボットより人々が幸せな社会をつくる方が先決

慶應義塾大学 前野隆司教授

伊藤仁美(以下、伊藤):お久しぶりにお会いできて光栄です。今回は「幸せと着物」をテーマに、私の方からいろいろと質問を投げさせていただきます。

早速ですが、まずは先生が幸福学の道に入られたきっかけについてお伺いさせてよろしいでしょうか?

前野隆司(以下、前野):僕はもともとロボットの研究者で、人間の手の動きを再現した手術用ロボットなどの開発に携わっていました。昨今は空前のAIブームですが、私も当時は心を持ったロボットを作れたらなんて思っていたんですね。

だけど、ロボットの心を作るにはまず人間の心を理解しないければならないと思い、人間の心について追求しているうちに日本人の幸福度が諸外国に比べて低いことに気づいたんです。

前野先生の教授室にて

伊藤:やはりそうなんですね。世界幸福度ランキングでも、日本は毎年順位が低い印象を持っています。

前野:やりがいを見つけられない人や自己肯定感が低い人、一人ぼっちで孤独を感じている人が日本には非常に多い。そう気づいた時に「これはロボット作ってる場合じゃない。人々が幸せな社会を作る方が先だ」と思ったんです。

あのままロボットの研究を続けていたら、今頃はAIブームでもてはやされていたかもしれませんが(笑)。早いうちに方向転換したおかげで、幸福学研究の第一人者と言っていただけるようになりました。

伊藤:最初にロボットの研究者だったと伺った際には意外に感じましたが、一度そちらの道に行かれたからこそ今の前野先生があるんですね。もともと人の心には興味がおありだったのですか?

お話を伺う伊藤さん

前野:子供のころから、実は哲学や心理学が好きだったんですよ。でも得意なのは数学や物理で。本当は人間の研究がしたかったけど、理系の道に進まざるを得なかったので、人間と少し似たロボットの研究を行なっていたわけです。

ただ、2008年から現在まで所属しているSDMは文理融合の大学院なんですよ。なのでこれを機にやりたいことをやろうと幸福学の研究を始めたという経緯があります。

伊藤:日本では前野先生がやはり幸福学の第一人者であるという認識ですが、世界ではもっと以前から研究は進んでいたのでしょうか。

前野先生のデスクは愛する家族の写真や幸せの実感に繋がる緑に囲まれている

前野先生のデスクは愛する家族の写真や幸せの実感に繋がる緑に囲まれている

前野:世界だけではなく、日本でも主観的ウェル・ビーイング(Subjective Well-being)研究を進めている心理学者は何百人も存在していたんです。しかし心理学の世界だけで完結する傾向が強く、研究結果を何かに応用しようという動きはなかなか出てこなかった。

伊藤:先生は明らかにした幸せのメカニズムを商品・サービス開発、職場や街づくりに応用されていますよね。やはりそこが唯一無二であるように感じます。

前野先生監修の『99%の小学生は気づいていない!?ウェルビーイングの魔法』を試読

前野先生監修の『99%の小学生は気づいていない!?ウェルビーイングの魔法』を試読

前野:機械工学って機械を作るための技術や知識を学んで、カメラやロボットなど新たな機械を生み出すための学問なので、研究の成果を世の中の役に立てたいという気持ちがあるんですよ。だから幸せの基礎研究をやっている人は僕より前にたくさんいたけど、それをものづくりと組み合わせて世の中に広めていく人はいなかったので、じゃあ自分がやろうと。

理系のマインドを持って人の心を研究する、そういうちょっと面白い立場に慣れたらいいなと思ったのが始まりでした。

幸福度を高める4つの因子とは

日吉駅出てすぐのイチョウ並木を進むと見えてくる日吉記念館

伊藤:先生はかねてより、幸福度を高める4つの因子を挙げていらっしゃいますよね。私は幸せというものは何となくなるものだと思っていたので、幸せは目指していくものという先生のお考えにまず衝撃を受けました。

あらためてその幸せの4因子について、どういうものかをお伺いしてもよろしいでしょうか。

前野:幸せのメカニズムを明らかにする上で、日本人1500人にアンケートを行い、それをコンピュター分析にかけたところ、ある4つの因子を満たしている人は幸福度が高く、どれか欠けている人は幸福度が下がってしまうことが明らかになりました。それをわかりやすく、

「やってみよう因子」
「ありがとう因子」
「なんとかなる因子」
「ありのままに因子」

という名称であらわしたものが、私の提唱する幸せの4因子です。

……あれ?もう伊藤さんのノートに書かれてる。

前野先生が提唱する幸せの四因子について予習済みの伊藤さん

前野先生が提唱する幸せの四因子について予習済みの伊藤さん

伊藤:はい、予習してきました!

前野:偉いね、勉強熱心な生徒みたいだ(笑)。

まず「やってみよう因子」は、自己実現と成長を意味するもの。夢や目標に向かって主体的に行動し、成長を続けている人は幸せなんですね。

「ありがとう因子」感謝の心。利他性が強く、人との繋がりを持っている人はそうでない人よりも幸せを感じやすい。

「なんとかなる因子」は、必要以上に失敗を恐れるのではなく、楽観的で前向きにチャレンジできる力強さをあらわしています。

そして、最後が「ありのまま因子」。他人と自分を比べて落ち込んだり、妬んだりするのではなく、「他人は他人、自分は自分」と割り切って我が道を進んでいける人はやはり強いし、幸せにたどり着きやすいですよね。

この4つと健康に気をつけるように意識して生活していければ、少しずつ幸せに近づいていけると僕は考えています。

ありのままに自分の道を進んでいける人は幸せ

伊藤:その4つの因子は全て密接に関わり合っているものですよね。どれか一つでも欠けていたら幸せな状態とは言えないような気がします。

前野:おっしゃる通り、4つを全部満たしてる人は幸せで、全部満たしていない人は不幸せなのはもちろん、どれかひとつ欠けるごとに幸福度は下がってしまうんです。

例えば、「ありのまま因子」が極端に強い人は、単なるわがままとも言えますよね。そういう人ってはたから見ると自由で幸せそうなんですが、他人とぶつかりやすいから自然と孤独になってしまう。

伊藤:そうすると、人との繋がりが失われてしまうので「ありがとう因子」が満たされなくなってしまいますね。

前野:実はそれだけじゃないんですよ。人との繋がりが失われた結果、自分一人ではどうにもできないことに直面した時に行き詰まってしまうんです。

「みんなで力を合わせたらできるかも」と思えなくなるので、「やってみよう因子」「なんとかなる因子」も欠けてしまう。なので、やはりどれか一つでも欠けると幸福度は下がってしまうんですね。

「幸せの4因子」について説明する前野先生
自分を客観的に見つめるための着物

伊藤:以前先生はどこかで「友達が多い人は幸せになれるけど、同じような人とばかり付き合うのではなく、友達が多様であればあるほど幸せ度が増す」とおっしゃっていましたよね。

前野:そう、大前提として友達は少ないより多い方がいいんですね。友達が一人もいなくて孤独な人は幸福度が低いので、幸せになりたいなら友達を増やしたほうがいい。

だけど友達の“数”より“多様性”の方が重要だということが研究で明らかになったんです。

もちろん少ないよりは多い方がいいんだけど、やたら増やすよりは、いろんなタイプの人種と付き合う方が幸せになれます。

人との繋がりが支える、やってみよう・なんとかなる・ありのまま因子

伊藤:そのお話がとても興味深かったんですが、多様な交友関係は個人の幸せとどう結びついてくるのでしょうか。

前野:「やってみよう因子」「なんとかなる因子」「ありのままに因子」の3つはすべて個人のやる気なんですね。だけど、そのやる気は孤独じゃないからこそ漲って(みなぎって)くるもの。

誰かに「大丈夫。いざとなったらバックアップするから、自由にやってごらん」って言われたら、人は安心して頑張れるじゃないですか。なので、やはり上記3つの因子は人間関係の基盤の上に成り立っていると言えます。

着物は幸せの4因子を満たしてくれる

対談中の模様

伊藤:この4つの因子をお伺いした時、着物文化とすごく密接に関係しているような気がしました。着物を着るにはすごく時間がかかりますし、工程も多いので、挑戦する気持ち、つまりは「やってみよう因子」が必要になります。でも頑張った分、自然と自己肯定感が得られるんです。

前野:洋服は身体にフィットするように作られているから、すぽっと上から被ったりボタンを締めるだけで着れちゃいますもんね。着るのに上手い下手もないですけど、和装は全体のバランスを整えながら着る必要があるので慣れるまでが大変です。僕も着物を始めたばかりですが、やっぱりびしっと着れた時にはやったー!という達成感があります(笑)。

伊藤:おっしゃるように着る技術についてもそうですし、精神が整っていないとうまく着れないので気持ちの面でも成長がすごく見えやすいと思うんですよね。その辺りも「やってみよう因子」と共鳴するんじゃないかと思います。

多幸感に溢れる伊藤さんの笑顔

多幸感に溢れる伊藤さんの笑顔

前野:洋服は簡単に着れてしまえる分、感謝も生まれにくいですしね。洋服屋さんが頑張って作ったものを、何も考えずに着ているだけ。

少し話は逸れますが、やらされ感で仕事をやっている人は幸せじゃないんですよ。やっぱり自分で創造性を発揮して、工夫しながら仕事をしている人の方が幸福度は高いんです。そういう意味で着物は簡便とは言えないけれど、着るのに工夫が必要だし、形を作った人との共同作業的な繋がりも得られるんじゃないかと思います。

伊藤:まさに着物は想像と創造、両方の力を使いながら着ていくものなので、私も日々模索しています。そのなかで職人さんの技術や祈りの結晶のようなものを着させていただいている感覚になり、自然と感謝の気持ちが芽生える。着物はそういう衣類なのかなと思います。

またこれは洋服とは違うところで、祖父や祖母の代から譲り受けたものを着る機会も多いですし、そういった意味でも心の繋がりを得やすいのではないでしょうか。

着物の費用対効果の高さについて語る前野先生

前野:そうそう。着物をはじめて買った時には値段の高さに正直びっくりしたんですが、大事に扱えば僕の孫の代まで着れるんですよ。安い洋服を買ってもすぐダメになって捨てることもありますし、費用対効果を考えたら着物は決して高い買い物じゃないと思うんですね。

今、巷ではSDGsというワードをよく耳にしますけど、日本にはずっと前からサスティナビリティ(持続可能性)を具現化したものが存在していたわけです。

伊藤:着物を分解して縫い合わせれば反物に戻るので、別の誰かの体に合わせて仕立て直すことはもちろん、別の用途で使うこともできます。やはり昔から生地を最後まで使い切る、使わせていだたくという精神がそこには宿っているのではないかと感じますね。

前野:前世代との繋がりですね。

本当にいいものを身にまとう

伊藤:やはり祖母の着物を纏っていると、祖母が「これを着ている時に何を考えたのか」とか、「どういうものを見て何を美しいと感じていたのか」だとかを自然と考えるようになるんです。そうした時に、自分自身の視野がすごく広がった気がしたんですよね。そういうのも、何かしら幸福度に関わってきてるのかなと思います。

前野:視野が広い人は幸せなんです。これは「やってみよう因子」に関係するんですが、やっぱり和服に限らず、いいものにはルーツや歴史があるんですよ。その歴史に思いを馳せて、いいものをちゃんといいものとして使ったり、着たりすることは非常に幸せのためになると思います。

伊藤:そうですよね。それが結果として、「ありのまま因子」に繋がってくると思います。

私自身洋服を着ていた時には流行ばかり追いかけていて、雑誌で見たものをそのまま着たりもしていたんですが、どうにもしっくりこなくて。かたや着物には流行がないですし、古いものが逆に新鮮だったりするので、着物を着るようになってからは「ありのままでいいんだ」って思えるようになってすごく気持ちが楽になったんです。

脈々と受け継がれるもの

伊藤:あとは先生が以前、自分のことを客観的に見れている人は幸せだとおっしゃっていたと思うんですが、私の場合、着物を着ることで普段より自分を客観的に見れる気がするんですよね。

前野:着物を着る時はたしかに、一生懸命自分のことを見ようとしますよね。洋服だと男の場合鏡も見ずに着ることが多いんですが、着物は鏡を見ながらじゃないと着れない。襟を後ろに引くか引かないかで、全然見た目が変わってくるじゃないですか。自分の肩ってこういう角度なんだ、自分に似合う着方って何だろうって自然と客観的な視点になりますよね

着物を着るようになってから自分を客観的に見るようになったという前野先生

前野:流行を追うこと自体が、ありのままでいることとは真逆ですよね。だけど、「流行りを取り入れなきゃ取り残される」みたいに思っている人が日本人には多い気がします。

アメリカで暮らしていた頃に驚いたんですが、あちらにはヒットチャートというものが存在しているには存在しているんだけど、誰もチェックしていないんですよ。

伊藤:そうなんですか!日本だと音楽番組では必ずヒットチャートが紹介されていますよね。

前野:そう、僕も日本にいる時はわりとチェックしてたんですよ。だから、どこで見れるの?って現地の方に聞いたら、「そんなのは誰も見ない。ヒットチャートは誰かが勝手に順位をつけたもので、自分が好きな曲を聞けばいいじゃないか」って言われたんです。

だけど、もともとは日本にも着物という流行とは関係なく自分に合ったものを着る文化があったわけで。そういうある種のルーツを身にまとうことで、自分のアイデンティティについて考えさせられますよね。

笑顔で前野先生のお話を伺う伊藤さん

〜 後編へつづく 〜

衣装協力/奥順
 伊藤仁美着用分
 ◾️着物 本場結城紬 重要無形文化財指定技術(手つむぎ糸、絣くくり、地機織り)使用 100亀甲総柄
 ◾️帯 いしげ結城紬 染名古屋帯

構成・文/苫とり子
撮影/水曜寫眞館

2021.10.01

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ふわふわの結城紬 「きくちいまが、今考えるきもののこと」vol.37

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