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黒一色からフルカラーへ 「浮世絵きほんのき!」vol.2

黒一色からフルカラーへ 「浮世絵きほんのき!」vol.2

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”浮世絵コンシェルジュ”の畑江麻里さんが解説する「浮世絵きほんのき!」。全5回にわたってポイントをご説明いただきます。あわせて、当時の女性たちの装いや流行についても見ていきましょう。

2022.08.25

まなぶ

一点もの?大量生産? 「浮世絵きほんのき!」vol.1

前回vol.1では、浮世絵には大きく分けて、

・絵師直筆の「肉筆画」
・版木を彫った「木版画

の2つがあることをご紹介しましたが、今回は、浮世絵のメインである木版による版画、いわゆる浮世絵版画が、どのようにフルカラーになっていったのかについて解説したいと思います。

※絵師が一人で木版画を制作したのではなく、絵師に彫師・摺師が加わり浮世絵版画ができあがります。この過程については次回vol.3にて詳しくお話しします。

黒一色からはじまった

・墨摺絵
・丹絵
・紅絵(漆絵)
・紅摺絵
・錦絵

墨摺絵(すみずりえ)

浮世絵といえば鮮やかに色がついたものと思われがちですが、木版画による浮世絵版画は、最初は黒一色のものから始まりました。

菱川師宣 《よしはらの躰 揚屋大寄》 大判墨摺絵 江戸時代・17世紀 
東京国立博物館蔵
出典: ColBase (http://colbase.nich.go.jp/)
※制作年代については、 天和(1681~84)より下るもしくはやや上がるとの説があるため江戸時代・17世紀と記載

このような黒一色の木版画は、墨で摺られているので「墨摺絵(すみずりえ)」と呼ばれました。

この墨摺絵の作者は、前回ご紹介した《見返り美人図》と同じ菱川師宣(ひしかわもろのぶ)です。

師宣は、あらゆるジャンルの江戸の文化・風俗を墨摺の絵本に描きましたが、中でも特に遊郭の風俗を描いたことで注目を集め、12図1組の『よしはらの躰』を一枚絵として独立させて売り出しました。これが浮世絵版画の起点になりました。

丹絵(たんえ)

鳥居清倍 《市川団十郎の竹抜き五郎》 大々判丹絵 一枚 正徳(1771~16)頃
東京国立博物館蔵
出典: ColBase (http://colbase.nich.go.jp/)

その後、やはり黒一色だけでは侘しいので、筆でオレンジ色の丹の色を加える「丹絵(たんえ)」が始まります。

紅絵(べにえ)

鳥居清信 《萩野伊三郎と嵐和か野》 細判紅絵 二枚続 享保11年(1726)
東京国立博物館蔵
出典: ColBase (http://colbase.nich.go.jp/)

続いて紅花から採れる紅を使用する「紅絵(べにえ)」も登場し、2色、3色と色数が増えていきます。

先述の「丹絵」は鉱物性ですが、丹絵は植物性の「紅絵」に代わっていきます。

(墨の部分に、高級に見える漆のように「膠(にかわ)」を塗って艶を出す技法は「漆絵」とも言われます。)

紅摺絵(べにずりえ)

鈴木春信 《見立竹林七賢》 横大判 紅摺絵 宝暦(1751~64) 後期
東京国立博物館蔵
出典: ColBase (http://colbase.nich.go.jp/)

しかし墨摺絵に直接手で色を一枚一枚塗っていくのは大変なので、18世紀の前半には版木で色を墨摺絵に紅色と草色を中心に2、3色、版木で色を重ねる「紅摺絵(べにずりえ)」ができあがります。

錦絵(にしきえ)

そして、師宣の墨摺絵の木版画が登場してから約100年後の1765年(明和2年)、裕福な好事家(趣味人)たちの間で、新春に特別制作の私的な絵暦(絵入りのカレンダー)を交換し合う「絵暦交換会」が流行すると、鈴木春信(すずきはるのぶ)という浮世絵師らによって、紅摺絵の際に開発された版木に印をつけて色版のずれを防ぐ「見当」を用いて、金に糸目をつけず色版を増やした多色摺の「錦絵(にしきえ)」が誕生します!

※「絵暦」は俳諧の趣味人の自費出版でした。春信に絵を描かせて制作費を負担し、制限なく色版を作りました。和暦の「大の月」30日、「小の月」29日が描かれていることから、「大小」とも呼ばれました。

それまで、色がついてもせいぜい2、3色だったものから、色彩表現が大幅に広がったのです。

錦絵は、この新技法につけられた「東(吾妻)錦絵」の呼称を略したもので、”京都西陣の錦織物「錦」のように美しい江戸の名産品”ということで「錦絵」と呼ばれるようになりました。

鈴木春信 《お仙と若侍》 中判錦絵 明和6年(1769) 頃
東京国立博物館蔵
出典: ColBase (http://colbase.nich.go.jp/)

ちなみに、浮世絵の紙の大きさも時代によって変化するのですが、春信が活躍した明和期(1764~72)はA4サイズよりも小さい中判サイズの上質な紙が主流でした。その後の天明期(1781~89)になると、それよりも10センチくらい大きい大判サイズが主流になります。

いわゆる「浮世絵版画」とは、ここまでご紹介した墨摺絵から錦絵まで全てを総称する呼び名であり、「錦絵」は最終的にフルカラーになった多色摺りの木版画のことを指します。

鈴木春信の描く着物美人

鈴木春信 《お仙と団扇売り》 中判錦絵 明和6年(1769) 頃
東京国立博物館蔵
出典: ColBase (http://colbase.nich.go.jp/)

今回は、錦絵を誕生させた鈴木春信の代表的な作品をご紹介したいと思います。

シースルーの薄物の着物をきたお仙(おせん:右)は、うちわを売りに来た美少年と親し気に会話をしています。

春信は、人形のように華奢で少女のような美人を数多く描いて人気を博しましたが、この作品は、なかでも江戸時代中期に突出した人気を誇った実在のアイドル、笠森お仙(かさもりおせん)を描いたものです。お仙は水茶屋の「看板娘」として、春信以外にも多くの浮世絵師に描かれました。

当時の水茶屋の娘は奢侈禁止令によって派手な着物を着ることはできませんでしたが、家紋である蔦の紋が入った渋めの色の着物をまとっており、おしゃれを楽しむ女性であったことがわかります。

鈴木春信 《お仙と団扇売り》

鈴木春信 《お仙と団扇売り》 中判錦絵 明和6年(1769) 頃
東京国立博物館蔵 出典: 国立文化財機構所蔵品総合検索シス テムを元に加工して作成

また、お仙は当時の人気女形・二代目瀬川菊之丞の家紋の「丸に結綿(ゆいわた)」紋が入ったうちわを手にしています。

この二代目瀬川菊之丞は、俳句を作るときの俳名を「路孝(ろこう)」といいました。

また、美貌であったことから「王子路考」とも呼ばれて(王子村の出身)一世を風靡し、「路考茶」と呼ばれる色や「路考結び」と呼ばれる女性用の帯結び、「路考髷」「路考鬢」といったヘアスタイルなどにも名を残しました。

団扇売りの美少年は、一説には、この二代目瀬川菊之丞を描いたともいわれています。

当時の人気のアイドル笠森お仙と人気女形の二代目瀬川菊之丞が実際にこのように遭遇したかどうかはわかりませんが、浮世絵にはこのように、複数の人気者が同じ画面に描かれることも数多くあります。

※奢侈禁止令によって派手な色は禁止され「四十八茶百鼠」と言われるように、地味な茶色が流行りました。その一つが「路考茶」です。

2022.04.16

よみもの

“四十八茶百鼠”をまとう 「歌舞伎へGO!大久保信子先生に聞く着物スタイル」vol.17

藍色の絽の着物

畑江麻里さん
畑江麻里さん全身

現在妊娠中ですが、安定期に入った際に、上でもご紹介した「笠森お仙」が着ていた薄物の着物(絽の着物)で「初心者でも楽しめる浮世絵講座」を開催しました。

ちなみに藍色は、江戸時代に好まれ、着物にもよく用いられた色でもあります。

会場の様子

会場の様子

講座終了後に、畑江コレクションの浮世絵版画を公開しました。

手にしているのは、参加者の方々にお配りした手製の浮世絵ノート(今回は葛飾北斎《冨嶽三十六景 凱風快晴》通称 赤富士)です。

学生さん撮影の写真

参加していた学生さんが写真を撮ってくれました!

「初心者でも楽しめる浮世絵講座」は不定期に開催していますので、ぜひみなさまも着物でご参加いただければ幸いです。

次回予告

さて「浮世絵きほんのき!」、次回vol.3では…

浮世絵版画が絵師・彫師・摺師によって制作される過程を、詳しくご紹介したいと思います。どうぞお楽しみに!

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