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花街に飛び込んで 「今井茜 着ものがたり ―京都・ニューヨーク・東京」 vol.2

花街に飛び込んで 「今井茜 着ものがたり ―京都・ニューヨーク・東京」 vol.2

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着付けレッスン、ヘアレクチャー、着物のデザイン企画と活躍の幅を広げる今井茜さん。 日舞との出会いから京都祇園の人気芸妓としての生活、単身渡米したニューヨークでの着付け教室開講から帰国し現在に至るまで… 「心身ともに美しい女性」になるまでの歩みを紐といてまいります。

「一人電車を乗継ぎ、不安と期待を胸に飛び込んだ花街ではどのようなはじまりとなりましたか?」

舞妓になるには置家に住込みをし、舞のお稽古や花街のしきたりを学ぶことになります。私は京都祇園甲部の置家「つる居」へ入りました。

置家へ到着した日のことは今でも鮮明に覚えています。「動きやすい格好で来なさい」という指示があり、プーマのスニーカーにジーパンで2つのボストンバックとともに京都へ入りました。到着してすぐに、置家のお母さんから、置家の姉さんについてお茶屋へ行くように言われました。

「スニーカーはあかんえ。それでお行き。」

唯一お洒落だと思って実家から履いてきたスニーカー…
履いて良いと言われたのは小豆色のつっかけサンダルでした。恥ずかしいという気持ちになりました。

つっかけサンダルのほうが脱ぎ履きしやすく、すぐに動ける良い履物ですね。
今なら理にかなっていることだと理解できます。本当にその時はカルチャーショックでした。ここでやっていけるだろうか、と思ったことを覚えています。

これが花街生活のはじまりで、ひとつの洗礼になりました。

わくわくして向かった 祇園

「置家さんとは芸能事務所のようなところなのですね。今までの生活との違いは大きかったですか?」

初めは家族以外の人との共同生活にとまどいを覚えました。置家の姉さんとは、最初の頃は何を聞いていいか何をしゃべっていいか分からず、ほとんど話をしたことがなかったです。後日談で、置家の姉さんは私が初めてできた後輩でした。さらに姉さんは自身が一人っ子だったので、どう扱っていいか分からなかったと言っていました。それぞれの思いがあったのですね。

置家へ入り舞妓になるまでの期間を「仕込み」と言います。だいたい一年くらいですが、個人差があります。最初のお仕事は姉さんの籠(かご)を持ってお座敷までついて行くことです。街の道を覚えるためですね。

それから置家のお母さんやお姉さんのお使い、お掃除、衣装を着付ける時のお手伝いがありました。雨が降って来たらお姉さんのいるお茶屋さんへ、コートと傘を持って行ったりしました。徐々にお茶屋さん、仲居さん、お帳場の方、お料理屋さんにも顔を覚えてもらえるようになりました。

置家「つる居」はお座敷を持つお茶屋もやっていました。着物を一人で着れるようになったらお客様のお出迎え、下足のお手伝いやお運びをしていました。このあたりでやっとお客様に新しく仕込みが入ったと顔を覚えていただけるようになります。

そんななか、まだお茶屋のお客様ではなくご紹介でいらしたばかりの方と少し顔をあわせたことがありました。置家のお母さんやお姉さんのお使いで色々なお茶屋やお店に行きますので、お会いした時はたまたまの偶然だったわけです。

その方が後日、
「茜ちゃん今日はいますか?応援したいから呼んでくれますか?」となったのですが…

店出しもしていないなか、もちろん、そういったことはできません。
そんな時はお茶屋のお母さんが「名前が出来ましたら、呼んであげておくれやすね。」と【店出し】という花街のしきたりをそっとお教えするということがありました。

その方はお店出しの時も芸妓に衿替えをする時もすべての節目で応援をして下さった方で、引退した現在でもお茶屋さんを通して家族ぐるみのお付き合いをしていただいています。

店出し 後ろ姿

また、花街の言葉は独特な言い回しがありました。イントネーションが全く違うために大変苦労しました。言葉を覚えるために電話聞きという名前の電話番をするのもお仕事のひとつでした。

花街ではまず五つの言葉を教えてくれます。
「おはようさんどす」
「おたの申します」
「おこしやす」
「すんまへん」
「おおきに」

さらに、もう一つ大切な言葉がありました。
「少々お待ちください」

花街言葉では
「ちょっとお待ちやしておくれやす」となります。

頭では分かっていても言葉がすっと出てこないので、電話口でもごもごしていました。最初は本当に電話聞きが苦手で、言えるようになるまで電話の前に紙を張っていました。

『舞妓さんになりたい』という、期間の決まった明確な目標があり、「どうにか試行錯誤してひとつずつクリアしていくこと」をこの仕込みという期間で教えてもらった気がします。

「茜先生は幼い頃から着物に慣れ親しんでいたと思いますが、仕込みさんの頃の花街での着物生活はいかがでしたか?」

仕込み時代は日中はお洋服で、置家のお姉さんがお化粧などの支度をはじめると、自分も着物を着ます。日中のお使いの時などにはバッグを持ちませんので、手ぶらで洋服につっかけで歩いていたら仕込みだとすぐに分かりました。最初は同年代の子がおしゃれをして歩いていると気になったりしていました。「私には目標がある。私には目標がある。」と思い、日々がんばっていました。

そうして少しずつ花街のしきたりを覚えていき、ある時期から舞のお稽古へ行けるようになります。お稽古へ通うようになると置家さんが用意してくれた着物を着て通います。着付けは置家の姉さんの着方を見て覚えました。可愛い桜の赤い小紋に最初は半幅帯、それから名古屋帯をしてお稽古に通いました。髪形はリボンの付いたシニヨンネットを使ってまとめていました。

ある日、置家のお母さんから「着物を着てついておいない」と言われました。京都へ来て初めて祇園から出るということではりきりすぎたのか、食事中に苦しくなってしまいました。結んだ紐がきつかったのですね。お寿司屋さんのお座敷で着なおし、この時に発見したことがありました。

この発見、経験からお教室のみなさんに毎度言っているフレーズがあります。
「紐は結ぶのではなく、留めるもの」
紐は着物が崩れないようにしっかりと結んでしまいがちですが、着物が留まっていればよいのです。正しい位置に布があり、紐を無理のない強さで留めていると着崩れはおこりません。

もう一つお教室のみなさんにお伝えしていることがあります。置家のお母さんから教えて貰った言葉です。
「女性の美しさは、顔かたちではなく髪かたち」

これは正面ばかりの化粧や顔だけを気にせず、髪のかたちにも気を配りなさい、ということなのです。元々、舞妓さんの衣装が着たい、踊りのお稽古をしたいということでしたので、顔に自信があったわけではありません。それなりになれば良いか、ぐらいに思っていました。周りを見渡すときれいなお姉さん、可愛い人に囲まれて、「これはいよいよ顔で勝負の話じゃないな」と思いました。

この頃から着姿や髪かたち、全体のバランスの重要性を感じていました。実際、人気のあるお姉さん方は全てにおいてバランスが取れていました。

バランスの重要性は感じていても、まだ仕込みの最初の頃です。お稽古や夕方に着物を着れるのはうれしいのですが、きれいに着物を着れるわけでもなく、時間がかかり、いつも同じできあがりにならない。という悩みがありました。

店だし、おこぼ

「仕込みさん時代の印象に残るエピソードはありますか?」

仕込みの一年間は家族や友人との電話や手紙のやりとり、連絡はできませんでした。里心がついてしまうからです。まだ子供ですから家族の声を聞くと甘えてしまうことがありますね。

そんななか、どうしてもやっていく自信がなくなり、実家に帰りたいと申し出ました。帰りたいと言えば帰れると思っていました。ところが、父から「家を出たのだから帰るところはない」と言われてしまいました。自分で決めた目標に何か理由をつけて、言い訳していたことが両親にはバレていたのかなぁ、と思います。

今となっては「帰ってきても良いよ」と言われなくて良かったと思いました。この頃の様子がテレビで流れたことがあるのですが、実家の母が「身を切られる思いでした」とインタビューに答えている場面があります。今思い出しても両親の強さに感謝しますし、辞めなくて良かったと思います。そこからはまた目標を取り戻し、負けん気と舞妓さんになりたいという情熱でがんばりました。

ある日、置家のお母さんから「ちょっとおいない」と言われたことがありました。お家元、引いてもらうお姉さん、そして置家のお母さんからお許しが出て店出しが決まったとの報告だったのです。仕込み期間が終わり見習いへ移るとともに、名前も決まり、舞妓とほぼ同じ生活になるということです。

お座敷へ出るときに使う名前を決めるのですが、引いてもらう姉さんから一字をいただきます。『引いてもらう』とは血は繋がっていなくとも姉妹になるということです。また同じ一字の付く名前の方々とは家族になるというしきたりです。花街にいる間の全責任を姉さんが引き受け、私が何かしてしまうとその姉さんがそれぞれに謝りに行かなければなりません。

姉さんが相当の覚悟をしてくれたことなどはその時は分かっておらず、私は「照」の一字をいただいて、「照〇〇」になるのだなぁ。と夜な夜な名前を書き出してわくわくしていたことだけを覚えています。そして「照ひな」という名前に決まりました。

店出しが決まり仕込み期間の終盤になると、舞妓になるために『見習い』という研修期間に入ります。見習いは地毛で髪の毛を結い、衣装を着てお茶屋へ行きます。お運びやお座敷の流れなどを学びます。舞妓ではないので、まだ半分という意味で半だらり(舞妓のだらり帯の半分)の帯を締めて、季節を問わないかんざしをつけます。衣装は白地の折鶴柄でした。お化粧や髪の毛を結えたのもうれしかったですが、この衣装が本当に大好きでした。

「いよいよ舞妓さんとしてデビューすることとなりましたが、舞妓さんが身につける衣装はご自身で選べるのですか?」

舞妓が身につけるものはすべて置家の持ち物で、新しく新調されたものや受け継がれたものです。芸舞妓のために毎日置家のお母さんが衣装と帯を決めます。置家にはたくさんの衣装、小物、かんざしや帯留などがあり、全て置家のお母さんが管理していました。舞妓衣装の特徴に肩上げ、袖上げがあります。肩上げは、一般には七五三の着物などで使われますが、10代の舞妓も同じく幼さの象徴を表現するものとして肩上げされた衣装を使います。また肩上げにはもうひとつの役割もありました。裄丈(腕の長さ)の調整です。

舞妓の衣装は柄の付き方で1年目、2年目、3年目、舞妓のお姉さんの着物と分かれています。四季と年数分の着物ですので、相当な枚数になります。毎度裄出しや裄詰めをせず、肩上げで調整をするという理にかなった方法です。

舞妓の衣装に限らず、着物には、受け継がれたものを仕立て直しをすることで体格の違いをカバーできる日本文化特有のすばらしさがありますね。

「こちらのお写真はどの様な時のお写真ですか?」

店出しの日 男衆のお父さんと

こちらの写真は店出しの時です。置家のお母さんが用意してくれた衣装を、男衆(おとこし)さんに着付けてもらいます。着物、帯とかんざしを合わせると15~20キロほどあります。おこぼ(ぽっくり)を履いて歩くのは慣れるまでは大変でした。

写真右の方が男衆のお父さんで、着付け以外にも様々なお仕事をしてくださいます。
店出しの時には手を引いて貰い、男衆さんが
「お頼申しまーす。つる居さんから出た〇〇さんでーす。」
と独特な言い回しでお茶屋さんへ紹介してくれます。

「いよいよ念願の舞妓さんとしてお座敷へ…
次回ははじめてのお座敷、都をどり、人気芸妓で活躍していた時のお話をお聞きいたします。」

『選ばれる教室、人でありたい』

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