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身に纏うものの人生哲学とその指南書 ー エッセイスト 紫原明子 「 きものと、読書」vol.2

身に纏うものの人生哲学とその指南書 ー エッセイスト 紫原明子 「きものと、読書」vol.2

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子育ての一番手のかかる時期も徐々に終わりに近づきつつある今、これからはいよいよ妻でも母でもない、ただの一人の大人としての私になる。時間がないからできないなんて言い訳も最早通用しない。普段着としての着物に手を伸ばす日が、いよいよやってきたのかもしれない。

昔から、着物を日常的に着る人への憧れがある。それも、かっちりと着るのでなく、毎日当たり前に着ているからこそ緩く着る、むしろその緩ささえ粋に見せる、力の抜けた上級者に憧れる。本来なら不自由なルールを、逸脱する醍醐味を味わうために利用してやるとでもいうような、遊び心のある大人を体現できる装いというのは、長い伝統に裏打ちされ、着付け教室まで存在する和装以外にはないんじゃないかとさえ思う。

けれども、ようやく子育てが一息つきつつあるという私のこれまでの日常には、まだそんな風に着物を日常にできるだけの十分な余裕がなかった。代わりに、と言えるのかどうかわからないけれど、私は羽織りをよく羽織る。

とにかく羽織るのが好きなのだ。特に丈の長い羽織りが好きで、ロングコートやロングカーディガン、ロングシャツなんかを、季節を問わず、大体何かしら羽織っている。猛暑の真夏に汗をだらだら流しながら羽織るのは、正直に言えばコントロールの範疇を越えた二の腕を隠すためでもある。けれど、仮にもし隠す必要がなかったとしても、やっぱり羽織りたい気持ちは消えないとも思う。

好きが高じて、華やかな席でも羽織る。もう10年以上前、首元から袖、裾にいたるまで全面に金糸の刺繍が施されたミディアム丈の薄手のコートを(セックス・アンド・ザ・シティを全シリーズ観終わったあとの高揚感の中で)衝動的に、買った。買ったあとで、一体どこに着ていくつもりかと頭を抱えた。しかし蓋を開けて、みればこれがいわゆる“ちょっとしたパーティ”にぴったりだった。結婚式でも、あるいは子供の入学式や卒業式などのお祝いの席でも、シンプルなワンピースの上に羽織ると、コートであるにも関わらずそれなりに“ドレスです”という顔をしてくれるし、結婚式のように人が大勢いて緊張感の続く場所では、羽織っていることで心が落ち着く。

羽織りは、包まれているという絶大な安心感をもたらしてくれる。とかく生きづらいこの世の中を、後にも先にも我が身一つで生き抜いていくと思うと、やっぱりいつもどこか心細いが、羽織りというのはシャツやらワンピースやらスカートやら、あるいは着物やら、自分の体とほぼ一体化した服と、世知辛い世間と、その中間に立ちはだかって、私を守ってくれるものということができる。たった一枚だけど、絶大な安心感をもたらす防御壁。

また私が羽織りを羽織るとき、大抵の場合ボタンは留めず、文字通り羽織る。そのため、万が一暑くなればサッと脱げるし、寒くなればまたサッと羽織れる。着てはいながらいつでも脱げるという状態にある臨機応変なところがなんとも頼もしい。

さらに言うと、前を留めず羽織っただけの羽織りというのは、歩くときに裾や袖が、ひらひらと風を受けて動く。右に左に、上に下に、予測不能に、自由に。それがなんとも気持ちいい。そもそも羽織りに関わらず私は、ひらひら動くもの、軽々しく右往左往するものが好きだ。逆に外からの力が加わってもびくともしないものというのは、他人の存在をまったく無視して生きているようで好きじゃない。揺れ動くことは、他者や外界がそこにちゃんと存在していると、体を張って示すこと。世界の確認とも言える重大な作業が私の体を舞台に行われていると思えば、なんとも喜ばしい。

たかだか羽織りに何を語る、と思われるかもしれないが、私の好きな作家で翻訳家の須賀敦子は、生前最後の著書『ユルスナールの靴』の冒頭で、こんなふうに書いている。

“きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかでおもいつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする”

仕事と子育てに追われていた毎日の中で、着物はまだ日常着にならないけれど、それでも徐々に“好きな服”や“好かれる服”、あるいは“便利な服”でもなく、“しっくりくる服”しか選べない自分にはなりつつある。“しっくりくる服”というのは、それを着ている自分に違和感がないということで、似合う、似合わないとかはあまり関係ない。

着ることによって、どこか自分に嘘をついているような気になるものは、長く着ていられないし、逆に「あなたはこう」と理想とする私の背中を押してくれるような服は毎日だって着ていたい。その結果として、終始何かしらを羽織りがちな今に至っているわけだけど、そんなふうに自分はもう、どうしてもそうせざるを得ない、どのルートをたどってもそこにいってしまう、というものがいくつか明確になりつつある最近は、あらゆるものを手に取り吟味していた20代の頃に比べると断然気楽になってきた。手当り次第に流行に手をださねばとも思わないし、デパートを歩き回ってヘトヘトにならなくても、好きなものが眠っていそうな場所は匂いでなんとなくわかる。

服は体を拡張するかのように身につけるものだからこそ、私が曲りなりにも培ってきた私らしさを、願わくばそのまま表すものであってほしい。と同時に、服に表れても恥じない自分らしさを、培っていきたいとも思う。
子育ての一番手のかかる時期も徐々に終わりに近づきつつある今、これからはいよいよ妻でも母でもない、ただの一人の大人としての私になる。時間がないからできないなんて言い訳も最早通用しない。普段着としての着物に手を伸ばす日が、いよいよやってきたのかもしれない。

最後に、カッコいい私を培う、そのヒントを与えてくれそうなおすすめの本3冊をご紹介します。

『美しくなるにつれて若くなる』白洲正子

『美しくなるにつれて若くなる』
白洲正子/角川春樹事務所

何かを軸にして生きるなら、正しさより美しさがいい。けれども忙しい毎日の中で、「美しさ」の本質についてじっくりと思い巡らせる機会は誰しもそう多くないだろう。本作は骨董や日本の伝統芸能に精通した白洲正子の人生哲学が詰まったエッセイ集。解説を担当した福田和也氏は「白洲氏は偉いのかどうかよくわからない」と書いている。学者でもなければ美術館の館長でもない。実は何者でもない白洲正子は、独自に培った美学で今尚凛とした存在感で輝き続ける。日常の些事に足をとられ、迷いそうになったときに、何度も読み返したくなる一冊。

『ソウルミュージック・ラヴァーズオンリー』
山田詠美/幻冬舎文庫

まだ子供だった頃、背伸びして大人の世界をこっそり覗き見する背徳感とともに、山田詠美に夢中になった。彼女の代表作としても知られる本作は、アメリカの黒人たちの社会で繰り広げられるさまざまな恋愛を描いた短編集。誰かを愛することは、誰かの体と心を隅々まで味わうこと。愛の喜びと痛みとを知らずして、スタイルを持った大人にはなれない。発表から30年以上も経っているとはとても信じられないほど、どの話も鮮やかに胸に迫る。

『ソウルミュージック・ラヴァーズオンリー』山田詠美
『掃除婦の手引書』ルシア・ベルリン

『掃除婦の手引書』
ルシア・ベルリン/講談社

著者であるアメリカ人作家、ルシア・ベルリンの体験に基づいて描かれた短編小説集。著者は結婚と離婚を繰り返し、4人の子どもたちのシングルマザーとなった。ときに掃除婦となり、ときに教師となり、ときに看護師となり、ときにアルコール依存症に苦しむ彼女の自伝的小説集。そんな風に書けばきっと多くの人はドラマティックな内容を想像するだろうが、この本の中で終始描かれるのはもっと些細な日常の光景だ。読み進めるうちに、断片がゆるやかに絡み合い、次第にひとつの強烈な生命の輪郭が浮かび上がってくる。この本を読む体験そのものが、抗えない人生との向き合い方を提示してくれるようにも感じられる。

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